諏訪大社と諏訪神社トップ / 特殊神事メニュー /

煤払神事 諏訪大社本宮 12月27日

 日最高気温に近い時間帯ですが、日陰の斉庭とあって薄手の手袋では全く効果がなく、冷え切ったカメラが指先の疼痛となって伝わってきます。1時過ぎ、神職が右片拝殿・諏訪大社大総代が左片拝殿・宮司が拝殿の“指定席”に着座しました。平成20年の煤払(すすはらい)神事です。
 「煤払い」といっても神事ですから、年末のニュースでよく流れる、寺院の畳を総出で叩いたり城郭の軒下に張ったクモの巣を一斉に払うシーンとは異なります。宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』では、長い竹棒の先に笹葉をくくりつけた箒(ほうき)で払う写真が載っていました。

 もはや「スス」とは無縁の時代となっていますが、かつては、その代表的な発生源の一つである竈(かまど)は生活の必需品でした。今で言うレンジですが、諏訪大社の摂末社遙拝所に「御賀摩(おかま)明神」があるように、各家でも竈神を祭っていたそうです。
 竈とは切っても切れない厄介者の煤ですが、「煤が無い」ということは「食べるものが無い」ことに繋がります。新年を迎えるに当たって、「新しい年も、たくさん煤が付くように」と感謝を込めて掃除をしたのでしょう。生きる上での切実な願いが、年末の大掃除を象徴する「煤払い」となって今に残ったと思われます。それとも、単に、スス・チリ・ホコリの中で一番汚いススを代表に仕立てたから、でしょうか。

幣拝殿の煤払い '08.12.27

煤払神事

 権宮司が、神前に一礼した後、名前がわからないので「欄間」とした拝殿軒下の彫刻部を、左側から右へ払い、それを二回繰り返して煤払いそのものは終わりました。
 実は、いつもの見慣れた神事の流れが頭にあったので、いきなりの煤払いに戸惑っていました。考えてみれば、(神事とはいえ)「掃除の後で神事」は当然でした。その後、通常の神事が始まり、大総代の玉串奉奠で終わりました。

宝殿の煤払い

 引き続いて行われた宝殿の煤払いは、前述の本で読んでいましたからおおよその手順はわかっています。しかし、白幕で覆われて“不可視の”可能性があります。大総代の後に続くと、すでに「LCV」のTVカメラが宝殿内に向いていましたから何かしらの撮影はできそうです。

 神職が左右に分かれて扉前の狭いスペースに着座しました。宮司は正面です。「開扉(かいひ)」の声で、宮司が扉前に躙(にじ)り寄りました。そこに、期待が砕け散った「お頭(かしら)をお下げください」の言葉が…。これには従うしかありません。「オーーーー、オー」と警蹕(けいひつ)が流れる中、鍵を開けるような金属音の後、ためらうような軋み音が長く続きました。
 「お直りください」の声で改めて宝殿を見ると、入口には黒地に金糸の金襴(きんらん)が下がっていました。そのため、残念ながら神輿は見えません。内部の照明は、奥壁近くに置かれた、ここからは一本しか見えないローソク(状の電球?)だけなのでかなりの暗さです。

煤払神事(24.12.27) 左の祢宜が権宮司に、正式な名称は不明の祓具を渡します。形状はハタキそのものですから、修祓と同じで、宝殿内や神輿の周囲を祓うのでしょう。何しろ、布橋の柱が邪魔となって限られた部分しか見えませんから、権宮司が動き回っていることしか確認できません。

煤払神事「祓い」 「宮司、稲穂を取りて神輿を払う」の声で、左に座った祢宜が宮司に稲穂の束を渡します。宮司はいったん正面の案(机)に向かいますが詳細は見えません。


「煤払神事」宝殿 金襴の垂れ幕の向こう側から時々衣擦れのような音が伝わってくるのを聞いて、「宮司が稲穂の“ホウキ”で、神輿をなでるように払っている」と想像してみました。


 幣拝殿の煤払いと同じように、“通常の神事”に戻りました。その神事が粛々と進む中で、布橋側にいた神職が丸めたゴザのようなものを手にしました。何だろうと興味津々で見ていると、それは布橋に敷かれました。大総代代表が玉串奉奠のために座る「見た通り」のゴザでした。大総代のトップといえど宝殿の扉前にも進めないのかと思いましたが、単にそのスペースが無いだけのようです。

 「閉扉(へいひ)」で御簾が下ろされ、再び警蹕が流れて扉が閉じられました。軋み音が長く続きます。1時55分でした。その後、摂末社遙拝所を拝礼して煤払神事は終わりました。

追記

 『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に、煤払いに関する記述がありました。

一、神宮寺村 (前略)箒免は守屋要人持其田より上り候稲を以(もって)年々十二月廿七日煤払之神事有

諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第三巻』

 神社で使う箒(ホウキ)の費用ということではなく、煤払い神事全般の経費は祢宜太夫所有の免田で賄ったと解釈しました。

和茅の御手幣 「宮司幣帛を奉(たてまつ)る」の幣帛は、諏訪大社ではよく見る、茅の茎に紙片を挟んだ「和茅(あえち)の御手幣」でした。