江戸時代の“ルポライター”「菅江真澄」が書いた「すわの海」があり、その中に「御頭祭」の見聞記があります。最近は、茅野市守矢神長官史料館の『しおり』に収録された「その文」が一人歩きし、それに「グローバルな解釈」が加わって“とんでもないこと”になっています。それを“憂いた”私は、「何とかしなければ」と(大げさとは思いつつも)一念発起しました。
実は、以前より『しおり』に収録された菅江真澄の文に何かしっくりしないものを感じていました。「やはり原典を読まなければ」とその引用元を調べると、(長いのですが)信州大学教育学部付属長野中学校創立記念事業編集委員会編集『菅江真澄の信濃の旅』でした。
図書館でその本を手にすると、中学生向けに書かれた本であることがわかりました。「さもありなん」と『しおり』の“原文”を通読してみましたが、「子供向けの表現」を割り引いても「何か違う」という違和感が残るのは変わりませんでした。こうなると、行き着く所は原書です。
ネットで検索すると、信濃史料刊行会『新編信濃史料叢書』に、菅江真澄著『すわの海』が収録してあることがわかりました。これも図書館にあったのですが、冒頭の解説から「原本は失われ、写本から採録した」ことを知りました。
また、「菅江真澄の文は懐古調で難解」と言われていますから、原本を写本、さらに写本(筆字)を翻刻に変換する過程で、菅江真澄が伝えたい事物が異なったものになったのは考えられます。それ以前に、旅行者の目で書かれた「御頭祭」ですから、『東方見聞録』のように正確でない可能性もあります。
それらを頭に入れて、「まずは古典から」ということで『諏方大明神画詞』と『年内神事次第旧記』を再読し、その解説本として『新年内神事次第旧記釈義』『伊藤富雄著作集2』を参照しました。次は、菅江真澄特有の「言い回し(言葉)」を『奥州デジタル文庫』から拾い出しました。また、彼の作品である『委寧能中道(伊那の中道)』『わかこころ(我が心)』『来目路の橋(くめじの橋)』などを、つっかえつっかえ読んでみました。
このようにして出来上がったのが、注釈版『菅江真澄の御頭祭』です。
【凡例】
「黒字」は、『信濃史料叢書』に載っている「翻刻」です。
「薄字」は、「赤字」に対応する部分です。
「、」は『叢書』にある句読点です。「。(改行)」は、読みやすくするために私が加えたものです。
「※」は一般的な名称です。
「||」は、勝手ながら“省略・書き換え”としました。
「■」私のレベルでは、全く説明できない箇所です。
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これを読めば、ネット上で横行している「御贄柱に神使を縛りつけた・神使にナイフを振り上げた・国司が駆けつけた」などが流言(でっち上げ)であることがわかります。
すべての“誤解の素”が『神長官守矢史料館のしおり』から始まったのは間違いありません。もっとも、発刊当時の編集者が、“このような事態になる”ことを夢にも想定していなかったのは間違いありません。
「釈義」とは大げさですが、資料を併記して読みやすいように書き替えたものが下記のページでご覧できます。
『神長官守矢史料館のしおり』に「2.御頭祭復元」が載っています。その章で引用しているのが『菅江真澄信濃の旅』です。その中の『すわの海』から「御頭祭の部分」を全文転載したものが下段のリンクでご覧できます。『しおり』を読むことができない方は参照してください。