『社例記』で読む御頭祭 '12.2.13('18.10.22 改稿)
御頭祭の様子を書き留めた文献は、中世以降の各時代に見られます。その記述を読んで神事の内容を知るわけですが、余りの奇祭に「どこまで信用していいのか」という疑問が常につきまといます。
その中で「かなり正確ではないか」というのが、延宝七年(1679)の奥書がある『社例記』です。というのも、「解題」に「幕府よりの命に依り書上げたるものの控えにして…松平山城守の宛名あり…」とあるからです。言わば、国に提出した諏訪神社上社の“内部調査報告書”ですから、多少の“粉飾”はあっても信用できるかと思います。
「是謂御頭祭(これ、おんとうさいという)」
『社例記』にある「御頭祭」に関する部分を、諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書 第一巻』から抜粋して転載しました。古文に強いという方はそのまま読んでも構いませんが、原文が誤植などで間違っている場合があります。
■ 「水準外の漢字」が混在しているので、文字化けしている場合があります。画数が多い漢字は、サイズを大きくしてあります。
従二本社一隔二二十町一當二辰巳一有二前宮十間廊一、毎年三月酉日於二上段八方一挑燈、掛二燈籠一百余一、神主大祝著二山鳩色狩衣立烏帽子一、夏毛皮褥敷二上段一座二南面一、
五官祝者著二狩衣風折烏帽子一着二左座一、小出氏織部佑著二狩衣風折烏帽子一為二介錯一、宮嶋大夫役二根曲御劔一列二右座一、矢嶋花岡其外神人連レ袖以二突飯・高盛之御供一備二大祝一、
猪鹿頭七十余、其外掛二魚鳥一、大祝・五官・神司向二饗膳一玄酒三献醻二大祝一、
自二頭主一以二馬・鞍・太刀・腹巻・弓胡籙・沓・行騰一献二大祝一、
於二廻廊上段一敷レ葦、以二小童一号二神使一、著二赤衣立烏帽子一、曳二二丈五尺之裾一、五官祝榊八矛矢一手以レ葛纒二御杖一、神使取レ之捧二上段一、
禰宜大夫開二籃箱一、大祝詞、設下庭燎於上二四維一、神使葛手繦取二宝鈴一掛レ肩、牽三立馬於二庭前一乗レ之、
于レ時以二柏葉一為レ盃、酌酴醿於二神使一、有二奉幣一、神使供奉之面々逆巡レ社三回、
大祝・五官祝拍二柏手一、参詣緇素准レ之有二御手祓一、(中略) 是謂二御頭祭一、
パスした方は「私の書き下し文」を読んでください。ただし、「行きつ戻りつ」の古文なので、多少の間違いには目をつぶってください。
本社より二十町隔て辰巳に当たり前宮十間廊有り。毎年三月酉日上段八方に於いて挑燈(提灯)・燈籠一百余を掛け、神主大祝山鳩色の狩衣(かりぎぬ)立烏帽子(たてえぼし)を着、夏毛皮の褥(なつけがわのしとね※鹿皮)を上段に敷き南面に座る。
五官祝は狩衣風折(かざおり)烏帽子を着て左座に着く。小出氏織部佑(おりべのすけ※官名)狩衣風折烏帽子を着て介錯を為す。宮嶋大夫根曲御劔役右座に列す。矢嶋・花岡(※両奉行)其外神人は袖を連ね、突飯(とっぱん)・高盛の御供を以て大祝に備う。
猪鹿頭七十余、其外魚鳥を掛ける。大祝・五官・神司饗膳に向かう。大祝に玄酒(げんしゅ※水)三献を醻(むく)いる。頭主(※高島藩主)より馬・鞍・太刀・腹巻・弓胡籙(ゆみやなぐい※武具)・沓・行騰(むかばき)を以て大祝に献ず。
廻廊上段に於いて葦を敷く。小童を以て神使(おこう)と号す。赤衣立烏帽子着て二丈五尺の裾を曳く。五官祝榊八矛(やほこ)矢一手葛を以て御杖に纒(まと)め、神使之を取り上段に捧ぐ。
祢宜大夫籃箱を開く。大祝詞(おおのっと※大宣)。四維(しい※四方)に於て庭燎(※かがり火)を設く。神使宝鈴を取り葛手繦(クズタスキ)を肩に掛ける。庭前に於いて立馬を牽き之に乗る。
于時(ときに)柏葉を以て盃と為し神使に於て酴醿(どび※ドブロク)を酌む。奉幣有り。神使供奉(ぐぶ)の面々逆に三回社を巡る。
大祝・五官祝柏手を拍く、参詣の緇素(しそ※僧俗)之を准(なぞ)らう御手祓有り、(中略) 是御頭祭と謂う。
他の文献に見られる内容と基本的には同じですが、意外と知られていないものを挙げてみました。
- 大祝や神官の着座位置がわかる。
- 「玄酒は水」なので、幼童の大祝が酔わないように“水杯”にした。
- 高島(諏訪)藩主が、盛装した馬を大祝に献上した。
- 御杖は、中世と同じ「榊を束ねた杖」。
- 神使は、約5mの裾(すそ)を引き廻した。
この文献に限りませんが、私がいつも思うのは「鹿頭を含む大量の贄をどこに置いたのか」という疑問です。ここでは「掛ける」という表現なので、混雑して「袖が連なる」状況では、十間廊の外に専用の贄掛け場を設置したとしか考えられません。
菅江真澄が見た「御杖柱」
天明4年(1784)に菅江真澄が見聞した御頭祭では、御杖は「ヒノキの角柱」として書かれています。『社例記』では「榊の杖」ですから、この百年の間に、現在見る御杖柱に変わったことになります。
神使の廻湛はすでに廃れているので、携帯性に勝れた(取り回しの楽な)杖の形状は必要ありません。何が契機となったのかはわかりませんが、御頭祭のシンボルとしての見栄えがする大型の御杖柱を考案したのでしょう。
『社例記』には“その後”が書いてありませんから、十間廊での神事で御頭祭のすべてが終わったように思えます。菅江真澄が聞き取ったように、神使は神長官の屋敷で“解職”された時代であったのかもしれません。