「ほうこうき」と初めて読んだのが、宮坂光昭著『諏訪大社の御柱と年中行事』にある「御頭祭」の章でした。ここに、『諏方大明神画詞』に出る「美を尽くす」の具体例として「鶴之抱行器(他)」を挙げています。
ところが、その説明がないので「ツルが何かを抱えた器」程度の認識で済ませて来ました。その後、思い出してはネットで検索するのですが、毎回無視されるので(わからなくても差し支えないこともあって)首をひねって終わりにしていました。
その中で「行器」は「ほかい」と読むことを知りました。
(諏訪頼重を殺しておきながら)「衰退した諏訪神社の神事を再興しろ」という命令書が、永禄八年(1565)の通称『信玄十一軸』です。その中の一つ『大立増之御頭規式』(以降『規式』)から、宮坂光昭さんが引用した「鶴之抱行器」に関する部分を転載しました。
一、三月一の御頭、初の酉之日十間廊于(に)於いて之(これを)勤。規式之次第、二重手懸・鶴之抱行器・同菟(兎)・置鳥・置鯉・同拾二合是等者(これらは)厳(飾)物成。御頭終而(して)大祝殿へ上がる。
古文では連文節変換が使えないので一字ずつ変換していたら、「同菟」が「菟之抱行器」であることに気がつきました。
上図は、御頭祭をスケッチした『菅江真澄民俗図絵』の一枚です。行器の定義からは、右側が「菟之抱行器」と考えられます。しかし、対になる「鶴之抱行器」はありません。
ところが、この並んだ桶を眺めている内に、本来は左の桶に鶴があるはずとの思いが浮かびました。つまり、旧暦の三月では鶴は渡りを始めているので捕獲は困難です。そのため、鶴が用意できない年は米飯を山盛りにするという規式があったと考えることができます。菅江真澄が見学したのは、正にこの年だったのかもしれません。
『神長守矢満實書留』の「文正二年(1467)」の項に、「たきほかい」を見つけました。神使(おこう)が精進潔斎をする御頭屋の神事を書き留めた文です。原文はカタカナです。
一、同御頭御酒肴五貫、花岡殿。御穀儀式五貫文、美作殿。
二重二具手かけたきほかい二具神たなもり(棚盛)物ともに牛山弥二郎殿…
ここに「手かけたきほかい」が出てきます。把手が付いた「手懸抱行器」と思われるので、『規式』の「抱」は「たき」と読んでよさそうです。
『諏方上下社祭祀再興次第』に、七貫文・五貫文・三貫文とある3ランクの「神事規式」がありました。「五貫文之所より勤神事供物等之次第」に、「かいほかい」が見えます。
今度は「かい」が出てきました。「貝行器」なら「貝合わせの貝を収納する行器」ですが、ここでは当てはまりません。
江戸時代の文献には木の太さを表現する「◯人抱え」を「かい」と書いてあるので、戦国時代から江戸時代までは「抱=たき=かい」の三通りの呼び方・書き方があったことが考えられます。
次は、「郡内諸家文書」から時代不詳の『御細工覚書』です。「御印きう様(ご隠居様)」などの当て字とひらがなが多く見られるので、容器などの注文を受けた“作文”が苦手な商人の書き付けと思われます。
八月廿六日より中左衛門殿御奉行御さいく(細工)
一、御印割箱子 一つ
(略)御かう(神使)参候頃物之事
一、廿てかけ八かうたきほかい四つ
一、たかたな(高棚)におきとりのたい(置き鳥の台)ひきこいの大(引き鯉の台)十二かう
「かう」が意味不明ですが、すでに何回も出ている「合」のことでしょう。ここでは、「二重手掛八合(入り)たき行器」となります。
ひらがなの「たきほかい」を何回も読んでいるうちに、抱行器は「炊行器」で「炊いた飯を入れる容器」ではないかと思えてきました。改めて絵図を眺めると正にその通りなので、「炊いた飯を入れた行器」と結論づけました。
前にも触れましたが、これで、御頭祭には串で固定した鶴と兎の炊行器があったことになりました。