かつては前宮の御室で行われた今年の神使を選出する神事で、『諏方大明神画詞』には以下のように書いてあります。
平成16年も、蛙狩神事に引き続いて「御頭御占神事(みうらしんじ)」が行われ、片拝殿に控えている諏訪大社大総代に「今年の御頭郷は湊・川岸」と伝えられました。この地区は今年一年間の諏訪大社の神事に奉仕します。そのため「さー大変」とどよめきが、…というようなことはなく、現在では順番が決まっているので形式上の神託です。
「頭」の意味は「頭番=当番」で、「郷」は諏訪を幾つかに分けた地区のことです。慶長の頃に輪番制となり現在は10の郷になっています。それに敬称の「御」を付けたのが「おとうごう・おんとうごう」と言う「御頭郷」です。かつてはその負担で郷村を苦しめたとありますが、現在は全ての神事が簡略化されていますから金銭面での苦労はありません。
全国的に大荒れでしたが、同じ長野県でも気象上では「東京」に含まれる諏訪は晴れ、初日の出が拝めました。
昨夜来の積雪は1センチでしょうか。幣拝殿の屋根がうっすらという程度です。祝詞奏上の後、宮司が、木製と思われる箱から占い用具を取り出して案(机)に据えました。
左にワラ馬が見えます。その背に差し込まれた剣先板には「内縣介(うちあがたのすけ)」と書かれ、「上社御宝印」と思われる鹿角印が押されています。宮司の背中が揺れています。何かをやっているようですが、本などにある解説を想像するしかありません。
何かを置くためなのか取り出すためなのか、宮司が体を大きくひねると、剣先板の頂部には刃渡り15cmの小刀が差し込まれ「内縣介」と墨書された紙片が掛けられているのが見えました。左には、写真で見覚えのある、かつては「丁半」を占ったというススキの茎で作った「筮竹(ぜいちく)」が置かれているのも確認できました。
『諏訪御符禮之古書』の冒頭には、以下のように書かれています。
一、御占打申時の様す 柄(ツカ)鋒に御左口神指申て外縣(トゝアガタ※そとあがた)の介・宮付を書、立申、(中略)
其後御占を打申、
ここに出る「柄鋒(つかほこ)」が理解できませんが、古文献では「神之木・鉾木」とあるので、刀子のことではなく「剣先板」であることがわかります(左写真)。
ここでは前掲の写真に合わせて「外縣の介」を「内縣介」と替え、時代によって変遷はありますが、現在の手順を参考にしながら“解読”してみました。
小刀子で“刺し止める”のは、候補者を御左口神と刀で挟んだから「もう、神の意のままになるしかない」という形を表したようにも見えます。そのことから、「奇怪な占い」と言われたのでしょうか。
「内縣介」は、かつて「諏訪地域を担当した神使(おこう)の役職名」です。現在の神事は諏訪地区だけで奉仕するので、「外・大縣」は占いません。これで、占い時には、現在でも御頭郷の代名詞として内縣介を使っていることがわかります。
『古諏訪の祭祀と氏族』に寄稿した宮坂光昭著『古墳の変遷からみた古氏族の動向』に面白い記述があったので、その一部を紹介します。
初めは目の付け所が違うと感心しました。しかし、私には、読めば読むほど、ここに出る「馬・ミシャグチ・剣」の相互関係がよく理解できなくなります。ワラ馬は単なる剣先板の受け台としか見えませんし、この占いは、神事では圧倒的に優位に立つ守矢神長の“専売特許”ですから、そんな形で演出する必要はないと思うからです。
占いの結果が出ました。宮司から渡された紙片を手に、祢宜が今年の御頭郷を諏訪大社大総代に伝えます。輪番とあって周知の事実ですから、神事終了間近を伝えるセレモニーと言ってもよいでしょう。
8時の歳旦祭から始まった神事は、9時15分頃に終わりました。ここへ来る途中にあった国道の温度表示が−6度でしたから、大総代はこれで寒さから解放されることになります。神職はこれが仕事ですからやむを得ないとしても、各地区から選ばれている大総代は「ヤレヤレ」でしょう。その後、片拝殿に座る機会がありましたが、ホットカーペットでした。お尻は温かいとしても…。
『守矢頼真書留』にある神秘の籠が占具を収納した「御頭箱」ではないか、と書いているのが細田貴助さんです。
彼の著作『県宝 守矢文書を読む』では、「武田軍と小笠原軍が戦ったときに、神長は『神秘の籠』だけを持って逃げた」とあります。「上社御宝印」も常時この中に納められていたと思えるので、「申刻(※午後4時頃)ニ移候、神秘之皮籠斗(ばかり)持候(そうらい)テ、自余(じよ※そのほか)ハ悉(ことごとく)捨候」とある文から、神長のせっぱ詰まった姿が伝わってきます。
『書留』に出る「皮籠」が御頭箱と推定されますが、現在使われているものは、木目があることから木箱と思われます。捧げ持つ姿からはそれほど重いものとは見えませんが、歴代の宮司は、元旦のこの日には“諏訪神社上社”の重さをズシリと感じ続けてきたことでしょう。
『諏訪史 第二巻後編』に、御頭箱は「蓋の表中央に梶葉紋を置き、身の底に安永四乙未年御造営ニテ塗出来」と載っていました。漆塗り木箱で、縦・横・高さが「41.5cm×32.4cm※×19.4cm」の大きさでした。上記の占い具の他は硯・筆と御頭帳だけなので、1775年以降は、文字通りの「御頭箱」ということになります。