『諏方大明神画詞』は中世の書物ですから、「前宮の荒玉・若宮両社」が舞台です。しかし、戦国時代の終わりには、すでに大祝は本宮近くの宮田渡に館を移転していましたから、距離的に見てもその祭祀は「本宮の荒玉社・若宮」に移っていたのではないかと考えてしまいます。
一方、宮坂光昭さんは「明治維新まで、上社大祝は正月元旦にまず第一に若宮(若御子社か)と荒玉社に出向いて参拝をする(※以上原文)」と書いています。ここでは“若御子社か”という表現から、前宮を想定しているようにも思えます。やはり、明治以降から本宮の両社へ参拝するようになったのかもしれません。
現在の諏訪大社上社の元旦は、歳旦祭に始まり蛙狩神事・御頭御占神事と本宮を舞台とした神事が続きます。その中で、「諏訪大社祭事表」には載っていますが、すっかり影が薄くなった両社の神事が長い間気になっていました。
本宮から前宮へ向かう途中に「若宮社」があります。八幡様とも呼ばれるこの神社はすでに諏訪大社の元を離れ、地元神宮寺区が管理しています。平成21年の正月。駐車場の空きを待つ初詣車の屋根越しに見上げると、氏子と見られる男性数人がたむろしています。開始が10時前後としかわかっていなかったので、まだ神事前であることに安心しました。
私は、初対面でしかも部外者という立場です。元旦とあって、ここはきっちりと帽子をとり、「おめでとうございます」と挨拶してから神事の開始時間を尋ねました。それが功を奏したのか、胡散臭そうな目は見られず「9時半」という時間が返ってきました。
諏訪大社の車が到着しました。権宮司を含めた神職二人と職員が一人という構成です。若宮社は本殿しかありませんから、神職は車脇の路上で着替えです。「式服のまま乗って来れば楽なのに」と思いますが、そこは神職ですから衣服を改めることは厭わないのでしょう。
氏子全員の玉串奉奠が終わると、私と、ここで偶然に会った知人にも声が掛かりました。玉串奉奠は見慣れていますが自身で行うのは初めてです。「右回りで枝元を神前に向ける」ということまでは知っていましたが…。覚悟を決めて玉串を捧げました。拝礼はいつもやっているので、神職同様上半身を90度曲げてからゆっくりと柏手を打ちました。さらに、直会の御神酒まで頂き気分をよくしました。
普段は見られない老若男女が、これも普段はひっそりとしている小路にまで出現しています。初詣時だけの交わりと離れを繰り返しながら藤島社へ向かいました。荒玉社は石祠というサイズなので、同じ境内にある大社殿持ちの「藤島社へ」となってしまいます。
若宮社と圧倒的に違うのは、その日当たりの良さです。すでに到着している神職の背中と幣帛が眩しいくらいです。
荒玉社は諏訪大社の直接管理ということなのでしょうか、地元の氏子総代の姿はありません。その“恩恵”を受けて、私達二人は参列を促されました。今日二回目となる玉串奉奠です。改めて職員に事前講習を受けましたが、(受け取る時の)持ち方まではよかったのですが、その先で戸惑ってしまいました。何しろ権宮司が傍らにいます。
若宮社から同行した知人は諏訪大社の研究者として知られていますから、神職や職員とは顔なじみで話が弾んでいます。私も少しだけですが、その会話の中に加えていただきました。帰り際に、「来年も来てください」と権宮司自らの手から神饌のリンゴとミカンを頂きました。
二人で、一昨年9月以来の再会と若宮社と荒玉社の神事に参列できた喜びを語り合いながら戻りました。その帰途で、彼は移転する前の荒玉社の鎮座地を教えてくれましたが、碁盤目の新しい道では基点や目標になるものはなく、博物館との相対位置になる「あの家の辺り」でした。