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「五月会と流鏑馬」の衰退 23.4.18

 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

『諏方大明神画詞』

 ここに、5月2日から始まった「押立御狩」で三日間狩りを行った後、「五日朝、本社の祭礼五月会頭(さつきえとう)と号す」とある「五月会」で盛大な饗宴を張ったことが書いてあります。更に、その後に行われた、これもまた目を見張る流鏑馬の様子も載っています。

 同夕べ、本社より馬場ノ廊へわたる行列常の如し。彼の所の饗膳引物大宮(※本宮)の儀に同じ、右頭人の経営也。
 同六日、流鏑馬ノ頭別人の役同廊にして饗膳。引物昨日の如し。両日三座(※二日間で三回目)の神物、役人等自他つづきたる、かずかず引連れたる竜蹄(りょうてい※駿馬)もおびただしくぞ見えける。次に十三騎馬場をあぐ水干、紅葉色を交え、金銀の付物日月の光をみがき草樹の花をかたどる。服餝(飾)の美麗さかりなる見物(みもの)なり。
 當色(とうしき※当日の役を担う神人)童僕(※若い神官)の行粧(旅装)弓袋さしの甲冑までも心をつくして調えたり。馬場すえ(末)に至りて長廊のうしろをへて馬はもとに廻り、装束を改めてやぶさめを射る。先ず三頭人(左頭・右頭・流鏑馬頭)、次(い)で氏人以上は當色(が)的を立つ。次に大祝の分は雅楽(がこうが)的をたつ。弓箭(矢)の芸、射礼の曲、面々譜代の練習左右にあたわず(能わず※できない)。
 又、射礼に並べて相撲廿番あり。占手(うらて)左右の頭人の分供御(くご)の輩役に随う。其の外は散在の国氏(民)等なり。雌雄(しゆう)に付きて毎度禄布(ろくふ※禄として賜う布)を給う。
 次に着座の仁(※人)等悉(ことごと)く水干を脱(ぬぐ)。山の如く積置いて、当日の奉行人・道々の輩にわかち与う。白拍子・御子・田楽・呪師・猿楽・乞食・非人・盲聾・病痾(びょうあ※なかなか治らない病気)の類(たぐい)、游手浮食の族(遊手浮食の輩)、稲麻竹葦(とうまちくい※数が多い例え)の如くに来集まりて相争い、其の体(てい)比興(ひきょう※おもしろい)也。是も与物結縁(けちえん)の随一なるべし。
詳細は、メニュー〔上社特殊神事〕「御射山祭(三)」の※1を参照。

『嘉禎神事事書』

 異なる文献の5月5日の様子です。

大宮馬場殿二ヶ度大頭(※右頭・左頭)大宮御宝物有、二頭人御宝を柳の枝に付けてかつぎ大宮より馬場殿へ御度(※御渡)、大宮にて御神事、大頭左・馬場頭は右也、此時しやう(※?)の本に酒を付に有、御宝物御宝殿へかき(舁き※担ぎ)入也、

流鏑馬神事の衰退

 「雑学メニュー」の[長廊大明神]と内容が一部重複しています。

 『守矢家諸記録類』の中に「神事次第」があります。これは『嘉禎四年神事次第』と『嘉禎神事事書』の間に挟まれた文書ですが、年月日の部分は残っていません。

一、五月五日、於大宮御頭、昔者(は)流鏑馬有之(これあり)
一、同日於笠懸馬場御頭在之、昔者流鏑馬有之

 『画詞』では盛大に催された五月会ですが、ここでは「昔は流鏑馬があった」と過去形になっています。『嘉禎神事事書』とは内容に大きな隔たりがあるので、嘉禎よりもかなり下がった時代と思われます。

 『信玄十一軸』と呼ばれる中に『諏訪上宮祭禮退転帳』があります。永禄八年(1565)の奥書がある「廃絶した神事」の記録です。

一、同(※五月)六日大宮において流鏑馬并(並)笠懸あり百五拾年(※150年前)退転、笠懸之馬場者(は)今田畠となるなり、

 笠懸馬場については、「田畑になった」とあるので、境外にあったことがわかります。現在の宮下道に沿った場所にあったのでしょうか。

 次は『御頭役請執帳』の「壬申三月御頭」の項です。元号は書かれていませんが「永禄九年寅丙三月吉日」の奥書があるので、「壬申」から元亀3年(1572)とわかりました。

五月御頭

宮頭 河源(※河西源左衛門尉)勤之(之を勤める) 海野(※上田市)

神殿 篠讃(※篠原讃岐守)勤之 深志(※松本市)
馬場に規式くミたて(組み立て)候へ共(そうらえども)、大祝殿・神長殿御こといり(言入り)候て、神殿へは二度申候、当年より已(以)後は神殿にて可勤候(勤めるべくそうろう)也、

 「流鏑馬馬場に旧来通りの祭壇の用意をしたが、大祝と神長官から、今年からは神殿(ごうどの)が担当すると連絡があった」と解釈しました。本来なら、神前二回・馬場廊一回の計三回の盛大な御頭神事です。しかし、実態がなくなった御頭を武田家の家臣が勤めるような状態では、(遠慮して)“神社会計”ではなく大祝家が負担するしかなかったのでしょう。

 私の知識では、一般的に言われる「五月会」を、諏訪神社上社の「五月会」に結びつけることができません。しかし、「会」が仏教の「法会」から来ているのは間違いないと思います。そのため、私は「本宮の根本は神陵」と考えているので、「五月会御頭」は「大祝の先祖を供養する御頭」ではないかと思ってしまいます。そうなれば、武田家に支配されている状態では“個人的な祭り”だから「大祝が費用を出す」という理屈がよくわかります。