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「五月会と流鏑馬」の衰退 '11.4.18

 断りがない限り、引用文献は諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』です。

『諏方大明神画詞』

 5月2日から始まった「押立御狩」で三日間狩りを行った後、「五日朝、本社の祭礼五月会頭(さつきえとう)と号す」とある〔五月会〕の段です。

 同夕べ、本社より馬場ノ廊へわたる行列常の如し。彼の所の饗膳引物大宮(※本宮)の儀に同じ、右頭人の経営也。
 同六日、流鏑馬ノ頭別人の役同廊にして饗膳。引物昨日の如し。両日三座(※二日間で三回目)の神物、役人等自他つづきたる、かずかず引連れたる竜蹄(りょうてい※駿馬)もおびただしくぞ見えける。次に十三騎馬場をあぐ水干、紅葉色を交え、金銀の付物日月の光をみがき草樹の花をかたどる。服餝(飾)の美麗さかりなる見物(みもの)なり。
 當色(とうしき※当日の役を担う神人)童僕(※若い神官)の行粧(旅装)弓袋さしの甲冑までも心をつくして調えたり。馬場すえ(末)に至りて長廊のうしろをへて馬はもとに廻り、装束を改めてやぶさめを射る。先ず三頭人(左頭・右頭・流鏑馬頭)、次(い)で氏人以上は當色(が)的を立つ。次に大祝の分は雅楽(がこうが)的をたつ。弓箭(矢)の芸、射礼の曲、面々譜代の練習左右にあたわず(能わず※できない)。
 又、射礼に並べて相撲廿番あり。占手(うらて)左右の頭人の分供御(くご)の輩役に随う。其の外は散在の国氏(民)等なり。雌雄(しゆう)に付きて毎度禄布(ろくふ※禄として賜う布)を給う。
 次に着座の仁(※人)等悉(ことごと)く水干を脱(ぬぐ)。山の如く積置いて、当日の奉行人・道々の輩にわかち与う。白拍子・御子・田楽・呪師・猿楽・乞食・非人・盲聾・病痾(びょうあ※なかなか治らない病気)の類(たぐい)、游手浮食の族(遊手浮食の輩)、稲麻竹葦(とうまちくい※数が多い例え)の如くに来集まりて相争い、其の体(てい)比興(ひきょう※おもしろい)也。是も与物結縁(けちえん)の随一なるべし。
詳細は、メニュー〔上社特殊神事〕「御射山祭(三)」の※1を参照。

 盛大な饗宴を張り、その後に行われた目を見張る流鏑馬の様子を書いています。

『嘉禎神事事書』

 異なる文献の5月5日の様子です。

大宮馬場殿二ヶ度大頭、大宮御宝物有、二頭人(※右頭・左頭)御宝を柳の枝に付けてかつぎ大宮より馬場殿へ御度(※御渡)、大宮にて御神事、大頭左・馬場頭は右也、此時しやう(※?)の本に酒を付に有、御宝物御宝殿へかき(舁き※担ぎ)入也、

流鏑馬神事の衰退

 「雑学メニュー」の[長廊大明神]と内容が一部重複しています。

 守矢家諸記録類の中に『神事次第』があります。これは『嘉禎四年神事次第』と『嘉禎神事事書』の間に挟まれた文書ですが、年月日の部分は残っていません。

一、五月五日、於大宮御頭、昔者(は)流鏑馬有之(これあり)
一、同日於笠懸馬場御頭在之、昔者流鏑馬有之

 『画詞』では盛大に催された五月会ですが、ここでは「昔は流鏑馬があった」と過去形になっています。

 『信玄十一軸』と呼ばれる中に『諏訪上宮祭禮退転帳』があります。永禄八年(1565)の奥書がある「廃絶した神事」の記録です。

一、同(※五月)六日大宮において流鏑馬并(並)笠懸あり、百五拾年(※150年前)退転、笠懸之馬場者(は)今田畠となるなり、

 笠懸馬場については「田畑になった」とあるので、本宮の境外にあったことがわかります。

 次は『御頭役請執帳』の「壬申三月御頭」の項です。「永禄九年寅丙三月吉日」の奥書があるので、「壬申」は元亀3年(1572)とわかります。

五月御頭

宮頭 河源(※河西源左衛門尉)勤之(之を勤める) 海野(※上田市)

神殿 篠讃(※篠原讃岐守)勤之 深志(※松本市)
馬場に規式くミたて(組み立て)候へ共(そうらえども)、大祝殿・神長殿御こといり(言入り)候て、神殿へは二度申候、当年より已(以)後は神殿にて可勤候(勤めるべくそうろう)也、

 「流鏑馬馬場に旧来通りの祭壇の用意をしたが、大祝と神長官から、今年からは神殿(ごうどの)が担当すると連絡があった」と解釈しました。

 本来なら、神前二回・馬場廊一回の計三回の盛大な御頭神事です。しかし、実態がなくなった御頭職を武田家の家臣が勤めるような時代ですから、(遠慮して)“神社会計”ではなく大祝家が負担するしかなかったのでしょう。