心配した「の」が無事「廼」と変換され、それがこのページの書き出しになりました。通しで書くと「麻衣廼」で、「あさぎぬの」と読みます。
その麻衣廼神社は木曽に鎮座していますが、建御名方命を祀っているので「御柱」が建っています。また、社殿の各所には、諏訪神社である証しの神紋「立ち梶の葉」が見られます。
麻衣廼神社の参拝に、贄川駅の駐車場を選びました。それが、国道19号沿いにあるのを知っていたからです。その「沿い」ですが、他に「隣接して・隣に・並行して」などの候補があって確定しかねていました。「…休みに似たり」とも言える時間の浪費に悩んでいると、何か他にも引っ掛かるものがあります。
「何だろう」と、木曽谷の北の入口である塩尻駅から「木曽の桟(かけはし)」がある上松(あげまつ)駅辺りまでの記憶を順に追ってみました。さらなる浪費の追加と思えましたが、「国道と駅が隣接しているのはここ贄川だけ」ということに気が付き、「有意義な時間」として取り戻すことができました。
木曽谷の中でも特に谷が狭まっている贄川駅周辺は、果ては信濃川となって日本海に注ぐ(木曽川ではなく)奈良井川・旧中仙道・JR・国道と全てが一束になっています。ここに関所(番所)が置かれたのもうなずけます(特に意味はありませんが古地図を用意しました)。
(改めて)駐車場とした贄川駅ですが、何か懐かしくなってプラットホームに立ってみました。無人駅ですから駅舎にも人影がなく、一人、赤茶けたレールの行き先を意味もなく確かめました。
「そろそろ麻衣廼神社へ」と戻りますが、改札口が常時開放されているのが不思議に思え、思わず手を触れてしまいました。正面は眩しいほどの国道19号です。改札口がまるで現実へのゲートのように見えます。時間の制約に背中を押されると、たちまち全身が日射に曝され、五感に染み付いたはずの郷愁はあっけなく消し飛んでしまいました。
「木曽高速」の異名がある木曽の基幹国道です。久しぶりの歩行者とあって車の走行音と風圧に恐怖を感じますが、ガードレールのおかげで、「緑にこれ程のバリエーションがあるとは」と初夏の山を仰いだまま歩くことができます。これほど山をまぶしくまた近くに感じたのは久しぶりでした。駅前の地図で確認した「三つ目の道」で国道を横断し、麻衣廼神社がある山際に向かいました。
お寺の境内を右に見ますが、正面は墓地です。「道を一つ間違えたかな、でも境内を横切ればいつでも」と歩みを進めると、突き当たりに鳥居が見えました。
その位置が神社境内の最左端であることに気が付き、観音寺の真後ろが麻衣廼神社と知りました。日常の生活に支障がない寺社は山に、という木曽谷ならではの限りある平地を実感しました。
御柱を右に見ながら拝殿へ向かいました。足先の木漏れ日は大きく揺れ、頭上の「塩尻市天然記念物」とある社叢からは、セミが初夏ならではのリズム感ある鳴き声を降り注いでいます。
拝殿は、正面だけが格子戸という造りです。そのため、左に神輿が三基置かれているのは見えますが、光が届かない本殿はその詳細を明らかにしていません。フラッシュをポップアップさせました。最近のカメラは手振れ補正がよく効くので、通常は自然光を大事にしています。しかし、シャッタースピードが「1秒」の表示ではその力を借りるしかありません。
デジカメ特有の一瞬の間の後、目の前が真っ赤になりました。「何事か」と驚いて液晶画面を確認すると、どうも本殿が赤く塗られているようです。次の説明は、この時の写真を自宅で“解析”したものです。
定紋幕は「梶の葉」しか見えませんが、向拝柱の貫の下に見える御簾の紋に「根が五本」と確認でき「下社の神紋・明神梶」とわかりました。貫中央の丸い飾り金具は、「立ち梶の葉」でした。木造らしき狛犬もあり、諏訪神社としてはかなりの“正統派”と見ました。また、蛙股の彫刻は「梅」とわかりましたが、ウグイスが留まっているのかは確認はできませんでした。
参考として、例祭時('14.5.18)に撮ったものを用意しました。残念ながら、前面に掛かった定紋幕で本殿の詳細がわからないのは同じでした。
御柱は、横一列で建っていました。頂部は平で、曳行時に綱を通す穴が空いています。その御柱を拝殿を入れた構図で撮りたかったのですが、境内の端なのでワイド一杯でも不可能です。せめてもと、舞屋の一部を入れてみました。
帰りは旧中山道に立ち寄ってみました。国道を突っ切って、JRを高架で越えると贄川宿です。塩尻側の終わりが、国道脇にも看板がある復元された贄川関所ですが、今日は塀の外から覗くのみとしました。
併設された木曽考古館資料館前に本や冊子の見本が並んでいますが、その中の『楢川村文化財散歩』に目が留まりました。買うほどのこともないと、麻衣廼神社関連の文をメモしました。さらに「これから行く平沢の諏訪神社はどこだ」とめくっていると、(見かねたのか)受付の女性から「地図があって便利ですよ」と声が掛かりました。他に見学者がいない一対一の関係では、“どさくさに紛れて退場”という手が使えません。そのまま背を向ける勇気もないので、結局は購入する羽目になりました。
予定外の出費を活かさないわけにはいきません。自宅に戻ってから、今日一日を振り返る意味を含めて目を通してみました。
これを読んで、「木曽の歌枕である『麻衣』」に疑問を持ちました。私が知る歌枕は「木曽の桟(かけはし)」だからです。
参考になるのかわかりませんが、長野県の県歌『信濃国』の4番を挙げてみました。浅井洌さんが作詞したもので、長野県にある歌枕が多く詠み込まれています。
元々、木曽(の字)が含まれる歌枕は「木曽の桟」しかありませんから、「木曽の歌枕である麻衣」という表現は間違っていることになります。やはり、『楢川村文化財散歩』の編集者は、和歌にある「木曽の麻衣」を何かと取り違えた可能性があります。
そこで、「歌枕」に「麻衣」を組み合わせてネット検索に掛けてみました。ところが、“麻衣廼神社関係”しかヒットしません。楢川村教育委員会のお墨付きですが、かなり怪しくなってきました。
次に「麻衣 木曽」で検索を続けると、以下の和歌が見つかりました。
これらの和歌を参照すると、「木曽の」が「麻衣の枕詞」のように使われていることがわかります。もちろん「枕詞にも『木曽の』は存在しない」ので、歌枕を枕詞に置き換えることはできません。
強いて言えば「木曽地区限定の枕詞」となりますが、この場合は(ネットでよく見られる「麻衣は木曽の枕詞」はおかしな言い回しで)「木曽は麻衣の枕詞」とするのが正となります。
改めて調べてみると、生駒勘七著『木曽の庶民生活』に〔麻織物の歴史〕がありました。
これを読むと、「丹後チリメン・越後上布(じょうふ)」のように、麻織物の代名詞として「木曽の麻衣」を用いていたことになります。そのような背景から、和歌では「麻衣」を使うに当たり、調子が合う7音節「きそのあさぎぬ」を慣用句として用いたのでしょう。
幕末に書かれた『信濃奇勝録』に〔不種菜(まかずな)〕が載っていました。
木曽の語源が「木麻(そ・苧)」など、この文にヒントがあるように思えますが、句読点がないので正確な解釈ができません。
ここまで長々と「木曽の歌枕である『麻衣』」を執拗に突っついてきた私ですが、それでは幕を引けません。米の「コシヒカリ(越光)」を全国どこで作っても「コシヒカリ」と呼ぶようなものとまとめてみました(少し違うか…)。
ここだけの話ですが、「麻衣」の“本意”は余り芳しくないので、我が子に「麻衣」として名付けるのは止めた方がいいかもしれません。もちろん、「まい」は構いません。