彼らのテリトリーに侵入したのか、道路脇の木から猿が監視するように見下ろしています。そんな奥深い山中に、今風の一軒家が忽然と現れました。何故こんな所に、と徐行しながら見た玄関には「公民館」の文字が掲げてありました。一般の民家とは違う造りにそれはそれで納得したのですが、この手の施設は集落の中にあるのが一般的です。新たな疑問が生じました。
その隣に鳥居があるので、もしや、と乗り入れると、…「葦原神社」でした。
御柱年のみ「大鹿歌舞伎」が神社に奉納されることを知っていましたから、車から降りて気が付いた道斜め向こうの特徴ある建物が芝居小屋となります。芝居小屋とわかれば、不釣り合いな広い駐車場が観劇用の桟敷となり、さらに、神社・公民館・芝居小屋の三位一体が地区の文化センターの役割を果たしている、と全てが繋がりました。今は雨戸で固く閉じられていますから、外観だけ眺めてから鳥居の前に立ちました。
葦原神社の「一本だけ」という御柱は、境内が狭いうえに立木が多いので遠目では判別できません。“主祭者”もそれを心配したのか、柱の前に「御柱」と書かれた立札がありました。
近間で眺めても、削り残しの赤い樹皮がかなり残っているので「この神社には御柱がある」との知識がないと、ただの立ち寄り参拝では御柱の存在を全く意識しないでしょうか。
御柱の全景を撮ろうと構えれば、必ず鳥居が前に入ります。「写真」とすれば、朽ちかけて傾いた鳥居を前景にした方がベターでしょうが、これでは主役が入れ替わってしまいます。下の道に降りて様々な角度から見上げると、今度は木々に紛れて「はて、どこにあるのだろう」というほど存在感がありません。結局、後日(10月10日)改めて撮り直したこの写真をベストとしました。
葦原神社の拝殿は完全に開放されているので、床を土ぼこりがうっすらと覆い杉の枯葉が何本も舞い込んでいます。廃屋にも見えるのは、過疎の上人里からも離れているので管理が行き届かないためでしょう。しかし、ビニールシートや金網で囲われていない開放感あふれる社殿は、本殿(神様)を身近に感じます。
カメラのファインダーを注視していると、被写体との間に何かが舞っているのが見えます。上を仰ぐと杉葉をバックに細かい塵状のものが風に流れています。あの悪名高い花粉でしょうか。その動きに乗じたかのような枯れ葉の匂いにわずかながら甘い香りが感じられます。そのまま風上側に目を移すと葦原神社の入口です。道を挟んで鳥居と対面していた満開の水仙からの贈り物でしょうか。
社殿から外れた斜面に小さな祠が見えます。杉葉が靴に入るのを気にしながら近寄ると、その傍らに蛇が彫られた石があります。天保14年とありますが、それ以外に手掛かりがないので何を祀っているのか分かりません。
葦原神社は諏訪社です。諏訪社を突き詰めると「ミシャグジ」から「ヘビ」にたどり着きます。しかし、本殿から離れた場所にあるので境内社の一つでしょう。憶測では祟られそうなので、勝手ながら見た通りの「蛇神様」としました。
ここへ来る途中の中央道では、「伊那IC」に降りる車の渋滞が本線上まで続いていました。「高遠の桜」目当ての行楽客です。「今の時間帯じゃ、絶対たどり着けないよ」と、地元の大渋滞事情を知る私は嘲笑ってその脇をすり抜けました。しかし、現在同時刻に桜(の花粉)を楽しんでいる人達と、この薄暗い林の中で杉花粉を浴びている自分は一体…。
平成22年9月になって頂いたメールの一部を紹介します。
その後、大鹿村を再訪する機会があったので、何か資料がないかと民俗資料館「ろくべん館」に寄ってみました。蔵書に大鹿村石造文化財調査委員会編『大鹿村石造文化財』があったので、〔蛇神・巳の信仰〕の一部を転載しました。
葦原神社は地元では「諏訪大社の本社」と言われ、様々な言い伝えがあります。書き加えているうちに長文になってしまったので別ページとしました。興味のある方は以下のリンクでご覧ください。