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学頭諏訪神社(学頭宮) 島根県出雲市斐川町学頭 20.5.17

諏訪神社の小字(こあざ)は「綿田原」ですが、大字を“採用”して「学頭諏訪神社」としました。

 荘原駅付近で、「目的地周辺です。気をつけて」とカーナビに見放されてしまいました。設定ミスにしたくないので、「道が狭いから車を置いて歩きなさい」と親切心まで考慮したプログラムの判断としました。
 地元の人が組んでくれたプログラムの道は確認できたのですが、余りの狭さに、その前を一往復してようやく決心が付きました。内輪差を考慮しながら慎重に左折した先は、これもまた狭い踏切でした。「踏切を渡ったら川沿いに」という記憶の声に従うと、地図では諏訪神社の近くにある綿田原公民館が現れました。

荒神谷入口に鎮座する諏訪神社

学頭諏訪神社 ようやく、懸案というか決着をつけるための「荒神谷入口にある諏訪神社」にたどり着きました。
 新築の社務所を左に見ると、その先に随身門があります。駐車場からの道は裏参道でした。まずは、地元出雲の太い注連縄が掛かった拝殿で参拝です。神号額は「諏訪神社」でしたが、神紋は「二重亀甲に三つ柏」でした。

学頭諏訪神社本殿 竹林で囲まれた境内は白砂で覆われ、まだ掃き目が残っています。本殿は大社造りですが、出雲大社に比べればはるかに小さいので、登拝口の屋根と本殿の長軸が同じになっているように見えます。
 境内に沿って一廻りしました。出雲ではすっかりお馴染みになった「社日」があります。位置が決まっているらしく、ここでも本殿の左にありました。境内の奥にたくさんの石祠が並んでいます。諏訪の主流「流造」と違って、その縦長に違和感を感じます。本殿の右側には、見るからに古そうな石祠があります(上写真)。石垣上にあることから別格と思われますが、案内板がないのでわかりません。裏参道を左に見る位置に、生け垣の瑞垣に囲われた小さな社殿があります。社号額を読むと「惣荒神社・御魂神社」と「若宮神社」でした。

名前は諏訪神社だが

神紋 新しい随身門には新しい神像がよく似合う、というわけでもないと思いますが、鮮やかな色をまとった武官神像が安置してありました。その門をくぐり、表参道を下の道まで降りてみました。降りたところで何をするわけでもなく、門の間からのぞく拝殿を見上げ、諏訪大社の地から諏訪神社まで来た、という既成事実を確認しただけでした。
 何しろ、案内板がないので由緒などの情報が得られません。「明日は甘南備山である大黒山と仏経山に登り、その足で斐川町の図書館で資料探し」と決めていましたから、そちらに期待することにしました。

謎のポスト

賽銭箱 二年に渡った出雲路ですが、当初から気になっていたのが、島根県では境内社の前に必ず立っている(葉書が入りそうなので)ポストです。写真は筒ですが、箱状の物が多く見られます。屋根があるので榊や花は挿せません。いったい何でしょうか。
 謎の「入物」でしたが、別の神社で「賽銭箱」と書いてあるのを見つけました。わかってしまえば「なるほど」とうなずけますが、諏訪では、このような「独立“賽銭”制」はありません。これが出雲気質なのでしょうか。

出雲の諏訪社

 斐川町図書館で、出雲には『雲陽誌』という古書があることを知りました。さっそく〔出雲郡〕の[学頭]から転載してみました。

諏訪大明神 健御名方命なり、本社一間四面、拝殿二間に五間、勧請年代分明ならず、祭礼七月廿七日なり、天文八年(1539)造立棟札あり、古老伝に云高瀬の城主米原氏の建立なり、

 7月27日は「御射山社」の例祭日ですから、「やはり諏訪神社なんだなー」と妙に感心してしまいました。これだけの寂しい内容ですが、すでに他の資料から「出雲の諏訪神社の歴史は新しい」と理解していましたから、この時点で荒神谷遺跡の銅剣と建御名方命を結び付けることは放棄しました。

 地元の方からメールを頂きました。諏訪神社について補足事項が添付してありましたので紹介します。

 学頭諏訪神社は、当初この高瀬山城山麓の中腹にあり、尼子氏・米原氏が落城した際、家臣の「福間某」が地元に残って、最初は現在地より少し北の「土居」付近に建て、その後現在地に移し、代々米原氏を祀ってきています。現在の宮司もその末裔です。
 この社は、諏訪神社のうち「下社」の流れと聞きます。米原氏や尼子氏の系譜(いずれも近江地方)は佐々木源氏が元になりますので、この氏神とするのが信濃国諏訪のタケミナカタノミコトです。