次は、案内板地図から名前が分かった「波迦神社」です。カーナビと地図を併用しながらたどり着いた先は、頭上に巨大な高架橋を仰ぐだけの行き止まりでした。自宅前と思われる畦道にいた男性に訊くと、道一本違うと言います。入り直した先が一車線幅となり、さらに、左が川というハンドル操作にも気を遣う道となりました。引き返すにも方向転換ができません。前へ行くしかない先がやや開けると、そこが目的とする波迦神社でした。
通り過ぎた先にある空き地は多分駐車場でしょう。車を降りると、ここでもコンクリートの高架橋を自然と仰ぎ見てしまいます。後に山陰自動車道と知り、自分のカーナビの古さも知りました。ネットで最新の地図をダウンロードできるタイプですが、有料では…。
背後は急傾斜地で前が沢筋の林という波迦神社境内ですが、思いの外明るく社殿も新しいとあって何かホッとします。
主祭神 倭建命・建部臣古彌命
由緒 出雲国風土記に「景行天皇が “私の皇子の偉大な功名を永遠に忘れないようにしたい”と仰せられて、御子神の名を後世に伝えるための部族として、建部という姓(かばね)を定められ、神門臣古彌を建部臣とされた。それでこの建部臣たちは今に至るまでこの郷に住んでいる」とある。
このような理(ことわり)により、この地に御祭神二柱が御鎮座になっている。
歩き回るのがはばかれるほどの掃き目を気にしながら、「波迦神社の諏訪社」を探索しました。
この神社にも社日様が、と気が付いたその隣に「明治44年諏訪神社合祀記念」とある石碑(左写真奥の右から2番目)を見つけました。これが勢いをつけたのか、拝殿前の神灯にも「諏訪」を見つけました。下部は剥落していますが、「諏訪大明」までは読み取れます。こちらはぐっと古く文化14年(1817)とあります。
原型を大きく損ねた狛犬を始め、この境内の古い石造物の風化が著しいのは、どこの産かは分かりませんが、その石質に起因していると思われます。風雪が摩滅させる劣化ではなく完全な「剥がれ」です。石理に浸み込んだ水による凍結割れでしょうか。
目的が達せられたので、本殿の観察です。本殿の回廊後部の左右に、60センチぐらいの石の神像が置かれています。これが何を意味するのかは分かりません。見た目の新しさから、最近奉納されたのかも知れません。石造りだから・屋外とは言え軒下だから、と取りあえず安置したのでしょうか。
この波迦神社で、初めて荒神谷における諏訪神社の痕跡を見つけることができました。しかし、拝殿内や鬼板の神紋は「違い矢」です。掲額にも「波迦神社」としかありません。合祀はしてみたものの、長野県の諏訪では徐々に縁が薄くなったのでしょうか。
斐川町では、主祭神は倭健命・建部臣古彌命としていますから、建御名方命は頭一つ下という地位に置かれているものと思われます。かつては独立した諏訪社だったものが、明治期の神社統廃合の流れに呑み込まれ、より有力な波迦神社に吸収合併させられたと思われます。
斐川町図書館にあった、池橋達夫著『諏訪神社由緒』から転載しました。
引用元の『雲陽誌』〔出雲郡〕[武部]を開くと、
…「武部(建部)社」は載っていません。ここに出る十二所権現が武部社で、波迦神社ということでしょうか。