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花 諏訪神社 鳥取県八頭郡八頭(やず)町花 20.5.18

 字「花」を採って、花諏訪神社と“命名”しました。

 集落の右奥にこんもりとした杜が見えます。大きな社殿があり、勘が当たったとガッツをしたのですが、…名前が違いました。
 物産館「みかど」に車を置き、車の往来が多い道に沿って、地図上では「国道29号で鳥取市方面」に進みます。車では全く気が付かなかった小道があり、その奥に視線を向けると、…鳥居がありました。

花諏訪神社

 石鳥居をくぐると、踊り場のような平地に社務所らしき建物があり、郡家町教委が設置した案内板が立っていました。「諏訪神社」と「大タモの木(タブの木)」で、町指定文化財と天然記念物でした。

八頭諏訪神社覆屋 石段を上り詰めると小さな本殿があります。その覆屋ですが、白木の柱と基礎の新しさから、耐震対策ぐるみの建て替えがあったようです。その造りですが、正面がフルオープンなのは理解できますが、右側だけ一間ほど壁がありません。本殿前が土間であることから、何か特殊な使われ方があるようです。湯立ての神事が今でもあるのでしょうか。
 本殿前に、アルミのロウソク立てがあります。神社にローソクの取り合わせは余り記憶にありません、というより火災の方が心配です。もっとも、火を付けた形跡がないので形式的なものかも知れません。

花諏訪神社 屋根の傷み具合から、最近まで覆屋がなかった可能性もあります。本殿の縁起は案内板に任せるとして、その台石には、「元治元年甲子十一月日・世話人従七」と彫られていました。
 幕末のそれも最末期に、従七さんが音頭を取って本殿を再建したのでしょう。島根県では「大社造」に浸りすぎて、この「縋(すがる)造」が新鮮に見えました。やはり「ところ変われば…」でしょうか。この後に向かった、道路地図では1ページの範囲内にある「智頭諏訪神社本殿」も同じ造りでした。

諏訪神社社殿
郡家町大字花字花屋敷 
町指定 昭和五十一年八月三十日 
 当社の社伝によれば、承平二年(九三二)信濃国諏訪郡の諏訪神社本社から勧請したものといわれ、祭神は「建御名方神」である。元の社地、社殿ともに広社であったといわれるが、中世戦乱の際社殿、社記共に焼失した。
 現在の社殿は江戸末期の元治二年(1865)再建のもので、方八〇センチの小型ではあるが、四周に繊細な手法による美麗な彫刻が数多くあり、右側面左下に「今嶋源治良龍翫(がん)」と刻印がある。
 総ケヤキ造りの社殿は桃山および江戸時代の様式を最大限に活用した名社殿建築である。
郡家町教育委員会 

 大字(おおあざ)「花」、字(あざ)「花御所」とは、何とも優雅な地名です。その由来が気になりますが、立ち寄り参拝ではどうすることもできません。

タモの木 「大タモの木」は、石段の右手にありました。「タモはバットの材料」としか知識にありませんから、私にはただの広葉樹としか映りません。
 案内板の文面を流用しました。


 この木はクスノキ科に属し、我が国の暖地の山野に自生する常緑樹喬木である。樹齢約五五〇年以上、根本周囲約八メートル、樹高約十三・五メートル、地表近くは老巧化して空洞となっている。この種の木では県内一の巨木といわれている。
 寺社の境内或いは墓地にもよく植栽されており、材質は堅く建築用材、装飾器具用材として利用される。樹皮は褐色の染料、葉や樹皮から製した椨粉(たぶこ)は線香を固める糊料となる。

 帰り際になって、参道入口に大きな石碑があるのに気が付きました。鳥居に気を取られて全く目に入らなかったようです。その正面に立つと「花御所柿元祖 五郎助翁之碑」と読めます。五郎助さんが「花御所」ブランドの柿を作った記念碑のようですが、詳細はわかりません。ここで初めて、参道の両脇(畑の中の参道)にある木が柿であることに気が付きました。

花御所柿・五郎助柿

 自宅で調べると、『JA全農とっとりアグリマーケット』のサイトがヒットしました。

 天明年間の頃(18世紀後半)に、郡家町「花」の農民・野田五郎助がお伊勢参りの帰りに食べた大和(奈良県)の御所柿がおいしかったので、枝を持ち帰って渋柿に接木したのが始まりといわれています。当時は「五郎助柿」と呼ばれていましたが、1908年(明治41年)に米子で開催された山陰鉄道の開通記念博覧会で一等賞を得て有名になり、その後「花御所柿」と命名されました。
 花御所柿は、鳥取県の東部、因幡地方にのみ栽培され、しかもその9割が「郡家町」というところで栽培されている非常に珍しい柿です。
 しかも不思議なことにこの「花御所柿」は、「郡家町」の中でもごく一部の限られたところでしか品質の良いものがとれないのです。そこは、旧「大御門村(おおみかどむら)」内で、発祥の地「花(はな)」をはじめ、「大門(だいもん)」「西御門(にしみかど)」「殿(との)」「市の谷(いちのたに)」など、なにかしらゆかりのありそうな地名のところばかりです。なぜこの限られた地区だけしか良いものがとれないのか詳しいことはわかっていません。

元治二年

 本殿が再建された「元治(げんじ)二年・甲子」ですが、その干支は元治元年のものです。調べると、元治二年は4月に「慶応元年・乙丑」と改元したことがわかりました。「元治二年」を彫り終えたところに「改元」が伝わり、「もう遅い」と干支だけ前年に戻した、と推理しました。また、「元治」を聞いたことがなかったのも、1年と3ヶ月の短命だったから、と納得しました。