諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪神社メニュー /

日影諏訪神社 山梨県甲州市大和町 21.3.31

 目的は甲斐大和駅の近くにある諏訪神社ですが、せっかくの越県なのでその周囲をチェックしました。地図をスクロールすると、国道を挟んだ位置に「日影諏訪神社」を見つけました。

 諏訪神社への分岐は、標識で「笹子峠」への道とわかりました。また、地図上にあった複雑に入り組んだ「線」は、現地でも中央自動車道の高架や橋梁下を入ったり出たりの特異な「道」でした。カーナビの画面でその両者が妙に一致するに感心しながら高度を稼ぐと、突然大きな胸壁が目の前に。「何だこれは」と注視すると「大和村スポーツ公園」です。神社の直近であることは間違いないので、これ幸いとその駐車場に駐めました。道を挟んだ木々の下を透かすと、日影諏訪神社でした。

日影諏訪神社

 近道らしき細道を下ると境内脇です。そのまま拝殿へ行けますが、いったん境外に出て入り直すことにしました。

日影諏訪神社 入口に、大和村教委設置の「日影諏訪神社」の標柱がありました。国道を挟んだ初鹿野諏訪神社と紛らわしくないように、集落の名前を冠したのでしょうか。祭神は建御名方命・素戔嗚尊・草野比売命で、「古来から、地域の産土神」と簡単な案内が書かれていました。

 斜面を削平した境内なので、左側が切れ落ちています。そのため、「なぜこんなところに」という大きな施設が見下ろせます。始めは閉鎖したショッピングセンターか何かと思いましたが、「大和の杜アリーナ」でした。「スポーツ公園」もそうですが、大和町では平地がないので、駅から離れた山の中に造るしかないのでしょう。改めて鳥居をくぐると、狭い境内ながらもうすぐ大木という杉が程よく繁り、杜の雰囲気を醸し出しています。
 拝殿には注連縄がなく、紙垂(かみしで)を画鋲で直接鴨居に留めてありました。中を覗くと神輿が2基あります。現在でも使われているのでしょうか。

日影諏訪神社 拝殿とゆるくアーチした橋で結ばれている本殿は質素な流造ですが、身舎(もや)がかなり傷んでおり、合板を使ったためか一部が剥がれています。本殿は垣で囲まれて上部しか見えないので、道から見下ろした写真を載せました。その向こうに写っているのが「大和の杜アリーナ」です。

鬼板と神紋 鬼板は、銅板打ち出しの鬼が飾られています。大棟の神紋は、この時は「武田菱」と見ましたが、自宅のモニターで確認すると「花菱」でした。写真でわかるように、初鹿野諏訪神社と同じく大棟の上にも飾り屋根があります。諏訪では見かけない箱棟は、甲州独自の造りなのでしょうか。

日影諏訪神社「花火筒」 見納めに再び拝殿を覗くと、左の隅に木筒がまとまって置いてあることに気が付きました。長野県南部の諏訪神社では、今でも手作り花火が奉納されています。その映像を見ていたので、一目で手筒花火の筒と分かりました。一番大きいもので、長さ4m径は30cmあるでしょうか。二つに割ったものをホゾで留めてあります。ホコリの付き具合から今は行われていないのでしょう。

 この神社からは、中央自動車道の橋梁が正面に見えます。目で見ても「これは!!」という傾斜ですから、1200ccの車ではトップで80キロをキープするのが難しかったのも当然と思いました(これは40年前の話です)。
 「かつて」より「昔」とした方が馴染む年代になりました。その昔、「矢立杉」を見るために旧笹子峠を越えたことがあります。その頃は諏訪神社など意識にありませんでしたが、今、年を経て、その縁で、通過ではなくここに立っていることに不思議な思いをしました。


諏訪明神 日影村 東北方初鹿野古道の上に祀る。又、南方笹子嶺上に諏方・天神の二祠を置く。
甲斐国志刊行会編『甲斐国志』

 「日影」諏訪神社は、旧村の名称でした。

社記・氏子総代等によると次のようにも伝承されている。
 本殿は一間社流造。創立は天文二年(1737)丁巳九月の銘がある。
 伝承によると、天文10年(1582)三月、武田勝頼は、この地で小山田信茂が迎えに来るのを待って滞在中、軍の旗を巻いて旗塚に立てて置いたので、日影の宮ともいわれている。
 拝殿内には、欅材で竹のタガをかけてある大小五本の花火の打ち揚げ用筒が完全な形で保存されている。旧日影村時代、村を挙げての祝祭日には、村民の総意により花火を揚げて祝った。明治末期頃初日橋の竣工に使用したのが最後になった。(後略)
山梨日日新聞社編 『大和村誌』から〔日影諏訪神社〕