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上今諏訪諏訪神社の末社
御柱社・十三所社・春宮社・秋宮社・中島社

御柱社

 上今諏訪諏訪神社から、地図を片手に御柱社に向かいます。咲き終わって変色したものから今が満開の果樹を見ますが、リンゴなのかモモなのか見当も付きません。まだ霜が降りている諏訪より半月早い春に、気持ちも頬もゆるみます。左へ大きく曲がった先に社殿が見えました。

御柱社 「御柱社」は広大な広場の「隅」にありました。子供がボール遊びをしているので「グラウンド」だと思いますが、追いやられたようにその片隅に鎮座する光景は、私には何かしっくりきません。
 御柱祭を盛大に行うようなので、イベント広場を意識して造成したのでしょうか。諏訪大社では、本来なら人が入らないような狭いスペースに“強引”に建てるのを見ていますから、その反動で開放的な空間に違和感を覚えたのかもしれません。この広さなら、大勢の氏子が集まる御柱祭は壮観で見事なものになるでしょう。
 御柱社に近づくと、鳥居から玉垣・社殿に至るまで、全て新築と言えそうな新しさです。案内板がありませんから、「見ての通り」と言うことでしょうか。

 御柱の頂部が「平」なので電柱にも見えてしまいますが、紙垂(しで)がなくなった幣帛が打ち付けてありますから、正(まさ)しく御柱です。
 帰り際に、鳥居に刻まれた「新築記念・平成16年4月4日」を見つけました。この年は御柱年ですから、全てが新調された中で御柱が建てられたのでしょう。
 上今諏訪諏訪神社の境内にあった、末社「御柱社」分の由緒をここへ転載しました。

 上今諏訪地区で二七尺・下今諏訪地区で二六尺の御柱を、御柱社に向かって右側に諏訪神社上社、左側に下諏訪神社が各一本ずつ建てる。
 神霊の降臨する聖地の標識、または神霊の依代としての御柱を建てる一日の祭礼であるが、当日は上今諏訪・下今諏訪の両地区共それぞれ木遣り・御賽銭船・御神木・神輿・万燈・扇子・拍子木・金棒・山車・御囃子などが隊列をつくって地区内を巡行する里曳が行われ、御柱を建立し祭礼は終わる。
 当社の御柱祭がいつから始められたものであるかは、神社勧請の時期と同様明らかでないが、『甲斐国志』によると「延宝八年(1680)マデハ毎七年ニ御柱ノ神事トテ社中ノ木ヲ伐リ御柱社中ニ立テシガ其ノ後中絶スト云」とあるが、慶応四年(1868年)に書かれた『甲斐国社記』には「七ヶ年目ニ一度ヅツ御柱社中ヘ御柱ヲ建テル大神事ヲ信州諏訪社同様相務来申候」と記されているところから、一度中絶していた御柱祭が、既に、相当以前から復活していたことが知られる。

十三所社

 諏訪大社上社に「上・中・下(で計)三十九所」の「遙拝所」があります。その中で、諏訪大社成立期の最重要摂末社「上十三所」だけを勧請して「十三所社」としたことは、この地に諏訪大社の全てを深く理解していた人物がいたということでしょうか。

十三所社 はるか向こうの高台に社殿が見通せます。十三所社しかありませんから、(後で知った)県道を横断し、それに向かう最短の道を選びます。ところが、さらにだだっ広い道が現れました。(これも後で知った)「中部横断道アクセス道路」でした。
 高規格道路のうえに信号間近とあって、車線が複数あります。タイミングを見計らって違法横断をしましたが、走ったわりには時間が掛かって焦りました。「上今諏訪」とあるバス停近くから階段を上がると「十三所社」でした。社殿は、珍しく「正調・神明造」でした。ただし、向拝があるので正式な「造」はわかりません。

十三所社沿革
御祭神 建御名方命・神武天皇
 十三所社は甲斐国志によると本社諏訪神社の末社中に「末社十三蔵の社中に七重の注連を張る是を祭礼始めと称す」と諏訪神社の例大祭の始めの神事と記せられている。「社記」には十三蔵は十三尊の転訛なり、今は十三所と云う」とあり、当十三所社は長野県の諏訪大社の十三遙拝所を勧請したものと考えられる。
 昭和十五年の紀元二六〇〇年の神武天皇御祭神のため、現在地より廃軌道を越えた南側県道沿いに祀られていた十三所社を現在(春宮社)の地に十三所社の本殿を建て祭典を行う。その時県下の各地より県木が寄せられた。
 その後本殿の屋根、回廊、玉垣等の損傷が甚だしく、改築することになり、平成九年十月十八日に竣工し十三所社西側に祀られていた春宮社も十三所社の本殿に向かって右側の玉垣内に遷座する。建築費用は中部横断道のアクセス道路の拡幅のため社地の一部を売却し此に充てる。

 境内の「碑文」を転載しました。アンダーラインの部分が(私には)難解です。何回も読み返しました。地元ではその経緯がわかっているので、頭の中で自動的(無意識)に修正するので疑問は持たないのでしょう。これでは「神武天皇のために、十三所社を移転した」となってしまいます。十三所社は、あくまで、建御名方命の“物”です。
 「(当時の)春宮の社地に社殿を建て、そこに十三所社(建御名方命)と神武天皇を合祀して、紀元二千六百年を祝った」ということでしょう。(始めは左の石祠を神武天皇社としましたが、『沿革』の「祭神並記」と社殿が「神明造」であることから、本殿に両神を合祀したと考えました)

春宮社

春宮社 左の石祠が、十三所社の玉垣内に鎮座“させられた”「春宮社」です。私には「社地を乗っ取られた上に、十三所社に取り込まれてしまった」と映りました。
 『沿革』の内容から、十三所社の旧鎮座地は、途中にあった祭神不詳の石祠がある境内地と思われますが、確認できていません。

秋宮社

秋宮社 『由緒』にあった巡幸路「諏方ノ原」がありそうですが、上今諏訪諏訪神社にあった概念図に従いました。
 郵便局を左に見て右の小路に入ると「秋宮社」がありました。三方を民家に囲まれて、しかも背後は物置です。祠を大写しにしても“しょうがない”ので、社地が見えるこの位置で撮りました。祠の彫り込みを読んでみましたが、…判読できません。記憶にある年号と相談しましたが、一致するのはありませんでした。

中島社

 現在の諏訪大社上社では、「清祓池」の中に陸続きの“中島”があります。江戸時代前期の『上社古図』でも同じ形状の池が見えますから、上今諏訪諏訪神社は「祓いの池」として「中島池」を“コピー”したのでしょう。そんなことを考えながら、来た道を戻らずに、見当を付けた細道を伝いました。
 再び広い道に突き当たると、正面の小高い丘の上に咲く桜の下に石祠が見えます。持参の地図を見て左から回り込むと、石祠の背中が現れました。

中島社 神社に付きものの古木がありません。桜もまだ若木ですから、隙々として開放感があります。丘の上にたまたま祠が一つあった、といったような景観でした。
 その祠は新しく「昭和57年再建」とありました。祠の他には、右奥に「石」が一つあるだけです。案内板もなく注連縄もなく字も彫られていませんから「ただの石」でしょうか。何か謂われがあるかも知れませんから、蹴飛ばすわけにはいきません。
 舗装された参道が丘の端まで続いています。のぞき込むと石段が下に続き、その先に、民家の脇を通る細道が上今諏訪諏訪神社方面に延びています。由緒にあった「諏方ノ原」でしょうか。

 上今諏訪諏訪神社へ戻るまでの間、これまでの道程を振り返ってみました。しかし、これだけ諏訪大社を意識して“再現”した理由はまったくわかりませんでした。「諏訪大社への強い思い入れ」としか書けないまま、山梨の「御柱」と「諏訪神社」の旅は終わりました。


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