話に聞いていた、「御射山神社」とある巨大な社号標がありました。神社の前はまだ葉を付けていない果樹園なので、その分背後の杜が濃く見えます。それをバックにして一層映えていた、と過去形になっている通り、樹齢五百年余(※『上片桐村誌』)とある「しだれ彼岸桜」はすでに散っていました。
社号標の右手には石碑や案内板がありますが、全て「県指定史跡・船山城跡」の関係です。この前に立つのは、古城巡りの人が圧倒的に多いと思われますが、私は「御射山神社」なので眺めるだけで大きな鳥居をくぐりました。
まずは挨拶ですから、御柱はチラッと見るだけで拝殿に向かいました。
本殿の前に金幣が3、と書いて、…さて単位は、と辞書を引くと「幣帛」にはありません。「幣(ぬさ)」で引き直すと、数え方は「枚」とありました。棒に垂(しで)が付いていますから、「本」の方が実感がこもっていますが、金田一先生には逆らえません。
拝殿内はかなり暗いのですが、格子の枠を三脚代わりにしたら、ご覧のように撮れました。このサイズではわかりませんが、金幣の台に金メッキの「諏訪梶」がありました。幣帛の数から、由緒書きがないのでわかりませんが、建御名方命他二神が合祀されているのでしょう。
最近例祭があったのでしょうか。「ぼんぼり」が気持ち良いほど整然と置かれています。改めて観察すると、格子一つ分だけずれた撮影位置ですが、全く左右対称です。御簾の下がり具合まで揃っているのは、宮司か氏子総代の(性格の)成せる技でしょうか。右隅には「庚申」とある御柱の「記念輪切」が置かれていました。
拝殿の外壁に木札があり、「上片桐」「片桐」「七久保」「葛島」と、各御柱を担当した町名が書いてあります。2回分がほぼ同じことから、抽籤ではなく話し合いで決めたことが想像できます。
大きな御柱では、氏子の人数が少ない地区では曳き建てが難しくなります。諏訪大社の御柱祭でも、抽籤とはいえ“暗黙の談合”があると噂されていますから、この順番が勢力(氏子の人数)順ということでしょう。
境内は、広いのでスッキリしています。諏訪では社殿の周囲に御柱を建てますが、ここでは拝殿の前に四本が建っていました。その御柱は、諏訪大社を除く諏訪の小宮のどこにも引けを取らない長さ太さです。この境内を埋め尽くしたはずの氏子の騒ぎを想像してみましたが、人っ子一人いない今では、それは無理でした。
銘板を読むと、諏訪の“仕様”とは異なっていました。その説明は、上写真で代用しました。
御幣(幣帛)は一之御柱だけに、柱の頂部ではなく脇の木に取り付けられていました。「冠」は、この時は四角錐に見えましたが、自宅でアップにした写真を見ると頂部は平らになっていました。
私は、松川町に来て、初めて御射山神社に御柱があることを知りました。諏訪の御柱しか見詰めてこなかったので、御柱に関しては“諏訪盆地の中の蛙”だったことを思い知らされました。
これで、本殿の三神が合祀と納得しました。また、「のち享保七年十一月社殿を修築して祭典を執行、諏訪神社の例に倣い、七年目毎に御柱祭を執行するにいたった」とありますから、御柱祭は古くから盛んであることも知りました。さらに「飯田の大宮諏訪神社とともに、伊那谷最大の祭事として近郷に聞こえている」とありました。来年は、もう見に行くしかありません。