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荒神谷の諏訪神社について 20.10.10

 荒神谷遺跡で大量の銅剣銅矛が発見されました。それを守るかのように「諏訪社」が取り囲んでいることが指摘されて(私は知りませんでしたが)話題となりました。「諏訪へ逃亡した建御名方命が、再び帰還できる日に備えて権威の象徴であった祭器を埋めた。それを守るために子飼いの家臣(諏訪社)を密かに配置した」というものです。
 平成20年5月に荒神谷を取り巻く神社を巡拝する中で、“夢”がしぼむというか順当な答えが出てしまいました。これらの諏訪神社は、すべて「南北朝時代以降に勧請された」ものでした。

荒神谷周辺の「諏訪神社(合祀を含む)


 斐川町には諏訪神社が幾つか鎮座しています。いずれも「諏訪神社」なので、固有名詞化するために、私がそれなりに調べて(勝手に)付けた「○○諏訪神社」では混乱が生じる場合があります。そんなところへ、地元の「トミー」さんからメールが来ました。
 「山城・城跡が中心なので、神社関係については余り詳しくはない」とありますが、地元ならではの貴重な情報です。神社の鎮座地を加えた『Google Map』とともに紹介することにしました。

荒神谷の「諏訪神社問答」

 以下は、私の問いに答(応)えてくれた“問答集”です。
【質問1】米原氏ゆかりの諏訪神社は、地元では「学頭諏訪神社」の呼称でしょうか。

 そのとおりです。われわれ氏子は、普段、「ガクト・ミヤ」と呼んでいます。

高瀬山城主・米原綱広(息子は同じ呼称ですが、綱寛と書きます)は、高瀬城の大手にあたる神代神社の境内に八幡神を祀り、領地の4か所に健御名方命を祀ります。学頭諏訪神社、庄原佐支多神社、神庭諏訪神社、武部字西諏訪神社の4社です。

庄原佐支多神社以外の3社は、新しく建立された神社です。以上のことは学頭諏訪神社の天文8年(1539)の棟札によってわかります。元亀2年(1571)高瀬城が毛利氏によって落城、米原氏は去りますが(学頭宮は家臣・福間某が神職として残る)、四ヵ村の健御名方命を祀る神社は、頭百姓たちによって村人の氏神として祀られていくことになります。

また、地誌「雲陽誌」(享保2年・1717年)によると、名称は上から、学頭村諏訪明神、庄原村諏訪明神、神庭村諏訪明神、武部村諏訪明神という名で、下段に「明神」をつけています。

なお、武部字西諏訪神社(武部村諏訪明神)は、明治になって今の波迦神社に合祀されています。記録によれば、永正年間(1504〜21)に建部右京進(たけべうきょうのしん)が、故郷の信濃諏訪から勧請した社があったと記されています。そうなると綱広はこの社を継承したということになります。

一説には、もともとこの高瀬城も、平安期に中国地方を治めていた平家が、出雲部の主要な位置に築城したもの(例:平家ヶ丸城という名前の城が数か所あります)の一つともいわれています。

神庭諏訪神社も米原氏と関わった社ですが、学頭宮の諏訪神社は、祭神米原平内兵衛尉綱寛を合祀神として本殿に祀っていますので、サイトでは神庭諏訪神社より、学頭宮諏訪神社に紹介した方が良いと思います。

【質問2】諏訪神社遷宮奉賛会が出版した冊子も「学頭」でした。そうなると、学頭の綿田原公民館前にある諏訪神社の名前をどうしようか、と悩んでしまいます。
 諏訪神社遷宮奉賛会が出版した冊子は、学頭宮の遷宮を記念して創られたものです。
 余談ですが、おもに西日本の山城を徘徊し、その地域の歴史を知ることがありますが、中世の歴史の中で、節目節目で大変多くの人々(一族・郎党)が主に東日本から西日本に移動しています。古くは承久の乱での論功行賞により、出雲部では伊那の飯島氏が奥出雲の三沢郷へ、また信濃・諏訪部氏が雲南の三刀屋郷へ、同じく鎌倉時代には駒ケ根の神氏流中沢氏が雲南の牛尾へなど。もちろん関西(畿内)からの人々(尼子氏・米原氏など)もいますが、こうした人々の流れが出雲での新たな文化も生み出してきているのではないでしょうか。

 以上ですが、特に最下段の「余談」には、私の知識外の事柄があり、さすが「山城・城跡」を専門にしているだけのことがある、と感心してしまいました。