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桑崎諏訪神社 塩尻市贄川(にえかわ) 19.6.22

 楢川村(現・塩尻市)教育委員会編『楢川村文化財散歩』を読んで、「桑崎諏訪社」の存在を知りました。以下に、桑崎に関する部分だけを抜き書きしてみました。

小野街道伊那へ抜ける旧中山道
 小野街道の途中から南に入った所に、江戸時代には「山中」といわれた桑崎集落があります。桑崎は、楢川村の中でも特に交通が不便で生活しにくい場所となったため、昭和43年、17戸77人が集団移住し現在住む人はいません。しかし、石置き板葺屋根がほとんどであった木曽では非常に珍しい茅葺きの民家、子供たちが通った小学校の校舎、桑崎の人々に信仰された桑崎諏訪神社や石仏などが往時を偲ばせています。

 標題の小野街道は、もう20年以上前のことになりますが、木曽から伊那へ抜ける道として興味があり一回だけ通ったことがあります。峠から伊那側は狭く、対向車が来ないのを祈るだけという冷や汗ものの道でした。

桜沢から

 国道19号から小野街道へ分岐する道にはモーテルがあり、その大きな看板に向かって左折の信号を出すのがためらわれます。今日は入って直ぐの(と言ってもモーテルではなく)桑崎への分岐には「落石注意・工事通行止」の標識がありました。その上、交互通行の信号まであります。異常に長かった待ち時間が青に変わり、「いざ」と勇みましたが直ぐに後悔しました。完全一車線幅が延々と続いていたからです。信号は一般車向けのサービスではなく、工事用車両のためでした。そのお陰で対向車と“遭う”ことなく抜けることができましたが、その先は迂回路のどろんこ道と重機のうなり音で満ちていました。迷うことなく、徒歩になりますが、もう一方の贄川(口)からのアタックと決めました。

贄川から

 地図通りに贄川宿を南に歩きます。現地で初めて知った国重文・深澤家住宅の構えを見ながらその横を下ると、奈良井川です。これもまた地図通りの橋を渡ると、木曽谷とあってもう山道です。今が旬の緑を目に今が盛りの“初夏ゼミ”を耳に、昨夜の雨が残した未だ濡れている草土を踏みしめます(10:45)。
 地図では分からなかった広い道に感謝しましたが、右に沢が寄り添うと次第に倒木が…。それが目の前に広がりジャングルジムの様相です。電柱も根元から折れ曲がっています。道は完全に寸断していました。考えるまでもなく去年の7月豪雨の跡です。今では復旧も進みその記憶もすっかり薄れてしまいましたが、ここではそのまま保存したかのような全く手付かずの状態です。
 三十代前半まで山岳会に所属していたこともあって、この時点では楽観視していました。街道歩きが沢登りに変わり、倒木によじ登ったり潜ったりの連続になると…。頭の中で、ザックの中身をチェックしました。

倒木

 予期せぬ展開ですから懐中電灯は持っていません。しかし、夏至という最強の味方がついています。おやつと同等という食料を除くと、地図と磁石は完備しています。靴もスニーカータイプですがビブラム底です。それらが後押ししてくれますが、…肝心の体力が!
 時々、丸太を組み合わせた橋の残片が現れます。傾いたり倒れている電柱を道標代わりに、右に左にと、少しでも歩きやすい箇所を選びます。山側に低い石垣が続く道が現れました。ここだけは崩壊を免れたようです(11:25)。これで倒木越えがなくなったと喜んだのですが、戻るように大きく曲がって高度を稼いだ道の先が流されていました。

 しばらくの間は自信がありました。ところが、道標代わりの電柱がいつの間にかなくなっています。ここで、完全に“道跡”から外れたことを受け入れました。しかし、自分と同じような人がいる、と凹みの連続を踏み跡と信じて崩れやすい斜面を強引に登り続けました。妻には「木曽に行く」としか話さなかったので、「ここで動けなくなったら永久に発見されないだろうな」との弱気もチラホラ…。
 休憩を兼ねて地図を広げました。ネット地図ながら、地理院の公式1/25000を部分コピーしたものなので信頼性はあります。磁北に地図を合わせると、細長く延びたU字状の等高線から谷を一つ間違えたことが確実となりました。「先ほどの大曲の先に多分橋があって尾根向こうの沢に沿った道が」と思っても、道なき道ですから、迷ったときの鉄則「引き返す」は実践できません。

 地図には、今立っている谷の上部を横切るように一本の線があります。少なくとも車一台は通れる道に突き当たるはず、と再び行動を起こしました。沢が細くなり時々伏流となり今は全く消えました。疎らな灌木の枝をつかんで体を確保する、足下が危うい斜面からは解放されましたが、今度は藪漕ぎです。自信はあったのですが、程なく現れた車一台幅の道に取りあえずホッとしました。一転して、等高線に沿って延びる明るい若葉に囲まれたトンネルを二本足だけで歩きます。
 右から小道が合流し、程なくして幹線と思われる林道に出ました。その景観の移り変わりは全くの地図通りです。この時ばかりは、この紙切れに凝縮された「線だけの情報」に妙に感心してしまいました。

桑崎諏訪神社

 雨で掘られて荒れた路面に足を取られながら下ると、川向こうに人家らしきものを見ました。やり過ごすと道下に鳥居が現れ、林間に見え隠れする茶色が諏訪神社と思われました。橋が流されヒューム管が露わになった沢を飛び越えるのが、かつての参道でした。やや傾いた参集屋らしき家屋を覗くと、これから使うかのように薪が置かれていました(12:30)。

桑崎諏訪社本殿

 裏に廻ると、…見るも哀れな廃屋です。屋根から垂れ下がったワラからは恐ろしささえ伝わってきます。しかし、神社であることは間違いありませんが、諏訪神社である証がどこにも見つかりません。何かヒントが、と『楢川村文化財散歩』を広げました。その写真に写っている珍しい形の灯籠が、目の前にある傾き倒れた一対の鉄板造りの灯籠と一致して、桑崎諏訪社拝殿を証明してくれました。予想もしなかった黒く朽ちた拝殿に木漏れ日が揺れ、遠くで鎮めるようなやさしさでセミが鳴いていました。

桑崎諏訪社本殿 余りの暗さにフラッシュ撮影となりました。どちらが本殿か分かりませんが、社殿二棟の屋根がシートで覆われています。覆屋の完全倒壊と運命を共にするのも間近でしょう。廃集落となっても生まれ育った地を見守って欲しいという願いを託したのでしょうか、幣帛が残っていました。
 「おーいお茶」に口を付けてから気がつきました。何かお供えを、とまだ封を切ってないおにぎりを手近の石に置いてみました。

桑崎の集落へ

 目的を達しましたが、諏訪神社を祀った桑崎の集落も確認しないと片手落ちになります。さらに下ると人家が何軒か現れました。今でも別荘として使っているものが二軒ほどありますが、多くは内部が丸見えの廃屋で、屋根が地面に伏したものも見えます。私も歩行者ですが、数匹のサルが横断し終わるのを待って、さらに歩みを進めました。
 下りなので、結果としてついつい深入りしてしまいました。沢を跨ぐ橋毎に道が寸断し擁壁や通水用の大きな鉄管がむき出しです。二ヶ所で重機が修復していますが、まだ車が通れない状態です。先ほどすれ違ったヘルメット姿の二人を不思議に思っていましたが、重機が置かれた現場まで徒歩というオペレーターと分かりました。

 これ程大きく曲がっている道なら現在位置がわかる、とお尻から湿った地図を取り出しました(13:35)。「ある程度の平地に人家がまとまって」という桑崎中心部の求め方でしたから、散在する家をパスし続けた結果が長いオーバーランと気が付きました。ため息を肺に戻し、道脇のブルーシートに座り込み、“非常食”と決めたカステラを残し全てを腹に収めました。
 復路は、後半戦という気楽さに加え往きと視点が変わりますから、様々なものがよく見えます。石仏も学校も見つけました。

桑崎小学校

 校庭は草に覆われ、近づこうにもヘビが、とヒヤヒヤです。かつては閉校の後に民間の林間学校として使われたようですが、その荒れ方から数年は人の出入りは無いと思われます。地図にある凡例の「記念碑」が疑問でしたが、入口にあったサイロ2基と分かりました。
 桑崎を縦貫する道から眺めただけに過ぎませんが、何故ここに生活の場を求めたのか、その理由が全く分かりません。安易な発想ですが「落人の隠れ里」でしょうか。

 廃屋を何軒か覗いてみました。完全に退去したとはいえ、かつての私生活の痕跡ですら見られたくないのか、闖入者を拒否するような“気”が残っているように感じます。屋内外の空気が全く同一になっている状態でも立ち入ることがはばかられますが、室内に一歩だけ踏み込んでみました。廊下の奥に、空でしょうが仏壇や神棚があり、壁には、何故残したのかという、額入りの笑顔が虚しい写真が飾られたままです。民宿の看板が残っている廃屋では、この隠れ里に何故、という今では懐かしい型のパソコンが数台山積みでした。

再び贄川へ戻る

 今日二度目となる桑崎諏訪神社の鳥居が現れました。
桑崎諏訪神社 木々を透かした奥に見納めとなる参集屋を認めると、しばらく追いやっていた帰路の関門が、胃の辺りに重い塊として戻ってきました。本来ならここから登ってくるはずだった、林道から分岐する小道の分岐に立つと、これから帰路に使う道も尋常でないことが予測され、梢の中に消えているその先をあれこれ想像してしまいました(14:56)。

 こんな所になぜという別荘の前で道が消滅し、「まともな道で時間稼ぎ」の思惑が外れました。下が大きくえぐれて谷になっています。暗い気持ちが半恐怖となり、すがる思いで見渡すと、“対岸”となった正面に道の一部が残っているのを見つけました。一旦沢底に降りて登り直しました。踏み跡が地図と重なった道を歩き続けると、凡例にある神社は、石仏が収まった小さな観音堂でした(15:15)。

 左に沢底を見下ろす斜面に切られた細い帯は一面草に覆われています。その道を横切る沢毎に小さな木橋があったと思われますが、今ではその数だけ崩れ迂回と不安の連続です。いつの間にか谷の底を歩いており、そぎ落とされたかのような地肌を見上げました。再び現れた電柱が確実に贄川宿へのガイドを引き受けてくれるので、その場その場で歩きやすい箇所を選び、ひたすら下ります。
 頭やザックを倒木に当てたり引っかけたり、本当に久しぶりの強制的な全身ストレッチの繰り返しが、ただ歩くだけとなりました。その余裕に乗って、桑崎往復の“迷”場面がフラッシュバックします。セミの鳴き声が近くになり、暑さが気になると奈良井川が見えました。4時10分でした。

 電柱はあっても、元々は人馬用という桑崎−贄川間の山道と知りました。修復が続いている桜沢からの林道と違い、廃道になるのは避けられないでしょう。桑崎から人が去って40年。それに続く道の一つが消え、諏訪神社も消え、いずれは林道以外は全て地図から抹消される日も遠くではないでしょう。

 桑崎諏訪神社が、贄川関所跡の資料館でふと手にした冊子を通して誘(いざな)ったのか、諏訪神社巡りなら遅かれ早かれたどり着く結末なのか、それは分かりません。今思えば、無謀とも言える行為を後押ししたのは、倒壊前の姿を記録に残して欲しいという声なき声だったのでしょうか。