下教来石(しもきょうらいし)諏訪神社は「北へ約50m移転した」とあります。逆となる「南へ50m」らしき方向に目を転じれば、確かに移転理由の国道20号が見えました。
拝殿の左右に、単管で組まれた柵状のものがあります。「立入禁止」と思われますが、見回しても「警告の文字」がないので、隙間から本殿がある後方へ廻ってみました。
下教来石諏訪神社は、本殿が大きいのでしょう。見上げるような覆屋が現れました。これも時代でしょうか、最近は覆屋にも「耐震」を見てしまいます。
開放部(窓)が広いので想定震度以下で崩壊すると見ましたが、中に長い筋交(すじかい)があることに気が付きました。屋根がトタン葺きという軽量級なので、これで充分なでしょう。
“拝観用”の窓は亀甲の金網で覆われていましたが、人間の目は極近の網には焦点を合わせないので本殿の細部までよく見えました。
傷みも少なく、色を別にすればつい最近造られたかのような保存状態です。
カメラはどうでしょうか。期待はしていませんでしたが、金網に鏡胴をピッタリ押しつけたのが功を奏したのか、予想以上のクオリティーで撮れていました。
県宝とあって多くのサイトやブログで「彫刻が…」と何枚もの写真を載せているので、ここでは「この二枚」のみとしました。
最上部の写真では中央部に写っている新しい社殿の内部です。中央にある本殿の屋根と向拝柱は古いようですが、扉などは新しく補修されています。左右にも小さな木祠がありますが、暗くて詳細は見えません。 祭神の手掛かりがないので、「子供の書き初め」から天神社としました。しかし、上手とは言えませんが、同一書体で書き方もまとまっています。祈願の内容から大人が奉納した(飾った)可能性が高くなると、一気に「学問の神様」の線は薄く細くなりました。
天井からカラフルな紙飾りが下がっています。思い当たることがあって床に目を遣ると、炉が切ってあります。この状況では「湯立神事」が考えられますが、「諏訪神社と県宝の本殿」という知識しかありませんから、推測と想像はそこまでとしました。
境内の右側が切れていて、その下に甲州街道が通っています。その旧街道に降り立つと、その高低差が防音壁となって反対側の国道の喧噪もここまでは伝わってきません。代わって釜無川の瀬音が届きました。
境内の案内板をそのまま載せるのは申し訳ないので、『白州町誌』から「下教来石諏訪神社」を紹介します。ところが、案内板の原典はここらしく、その差は余りありませんでした。
鎮守社である諏訪神社の移転は、旧下教来石村にとっては寝耳に水の出来事だったと思われます。しかし、「国」道の開設とあっては、「村」社の立場ではそのまま呑むしかなかったのでしょう。「その経緯が少しでもわかるかも知れない」と、古い航空写真と地図を眺めてみました。
昭和22年9月撮影の写真で見ると、甲州街道が鍵の手状に曲がる部分に大きな森があります。現在の状況から、これが下教来石諏訪神社の杜と考えられます。
詳細は不明なので、社殿の位置は○内(のどこか)としました。信州方面へ行くには、諏訪神社の正面を見て右折したのでしょう。
「明治四十三年測図昭和四年要部修正測図」とある地図の一部です。[秘]とあるのが時代を感じさせます。
ここではの凡例が無いので、上図と同じ○内を推定地にしてみました。因みに、朱色の道が旧甲州街道です。
最新の地図です。水準点の数値が少しだけ異なっていますが、その直近の郵便局辺りが旧鎮座地でしょうか。
(諏訪神社とは関係ありませんが)この地図には、上図にある役場[○]と学校[文]がありません。
調べると、まず「下教来石村他三村が合併して鳳来村(ほうらいむら)になった」ことで、昭和52年に廃校になった鳳来小学校と、昭和32年に廃止された鳳来村役場の「鳳来出張所」でした。また、それらが、「熊本県果実農業協同組合連合会 白州工場」になったことがわかりました。