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下教来石諏訪神社 北杜市下教来石 21.4.8

 下教来石(しもきょうらいし)諏訪神社は「北へ約50m移転した」とあります。逆となる「南へ50m」らしき方を振り返ると、確かに移転理由の国道20号が通っていました。その向こうに「熊本県果実連」のジュース工場が見えます。なぜここに“熊本県”なのか理解に苦しみましたが、自宅に戻ってから調べると、「南アルプス花崗岩質の良質水を求めて」とありました。「サントリー白州醸造所」があるのも同じ理由でしょう。

下教来石諏訪神社

 拝殿の左右に、単管で組まれた柵状のものがあります。「立入禁止」と思われますが、見回しても「警告の文字」がないので、隙間から本殿がある後方へ廻ってみました。本殿が大きいのでしょう。見上げるような覆屋がありました。
 これも時代でしょうか。最近は、覆屋にも「耐震」構造を見てしまいます。開放部(窓)が広いので想定震度以下で崩壊すると見ましたが、中に長い「筋交(すじかい)」があることに気が付きました。屋根も板一枚にトタン葺きという軽量級なので、これで充分なでしょう。

山梨県指定文化財「諏訪神社本殿」

下教来石諏訪神社本殿「猩々と酒壺」 “拝観用”の窓は亀甲の金網で覆われていましたが、人間の目は極近の網には焦点を合わせないので本殿の細部までよく見えました。
 傷みも少なく、色を別にすればつい最近造られたかのような保存状態です。

下教来石諏訪神社の彫刻 カメラはどうでしょうか。期待はしていませんでしたが、金網に鏡胴をピッタリ押しつけたのが功を奏したのか、予想以上の写真が撮れていました。身舎の彫刻は、案内板にある「猩々と酒壺」です。読みと意味は、私がしたように「コピペ」で調べてください。
 県宝とあって多くのサイトに詳しく載っていますから、ここでは「彫刻が…」という話は省きます。

筒粥殿らしき神楽殿

境内社 最上部の写真右にある新しい社殿の内部です。中央にある本殿の屋根と向拝柱は古いようですが、扉などは新しく補修されています。
 祭神の手掛かりがないので、「子供の書き初め」から天神社としました。しかし、上手とは言えませんが同一書体で書き方もまとまっています。祈願の内容から大人が奉納した可能性が高くなると、一気に「学問の神様」の線は薄く細くなりました。左右にも小さな木祠がありますが、こちらも祭神は不明です。
 天井からカラフルな紙飾りが下がっています。思い当たることがあって床に目を遣ると、炉が切ってあります。この状況では「湯神楽」が考えられますが、覆屋兼拝殿に見えるこの社殿では余りにも狭すぎます。炉の目的を筒粥神事に替えてみました。しかし、「諏訪神社と県宝の本殿」という知識しかありませんから、推測と想像はそこまででした。

 境内の右側が切れていて、その下に甲州街道が通っています。旧街道に降り立つとその高低差が防音壁となって、反対側の国道の喧噪もここまでは伝わってきません。代わって釜無川の瀬音が届きました。改めて神社の移転を考えてみました。50mなら国道が神社を避けるべきと思いましたが、やはり「国の道」と「村の鎮守」の違いでしょうか。

下教来石諏訪神社「縁起」

 境内の案内板をそのまま載せるのは申し訳ないので、『白州町誌』から「下教来石諏訪神社」を紹介します。ところが、案内板の原典はここらしく、その差は余りありませんでした。

 勧請の年月は定かではないが、教来石村に御朱印山と呼ばれた所に天照皇大神を祀り、のち建御名方命を合祀し諏訪明神と号し、下教来石村の産土神として崇敬していた。
 元和三年(1617)までは仮宮に鎮座、同年社殿を現在地に造営遷座して神主石田備前に奉仕させた。しかし、天保年間(1830-1843)に至り、社殿の腐朽はなはだしく、よって同三年信州諏訪の立川和四郎富昌を棟梁として、本殿はケヤキ造り総彫刻、屋根は鱗葺きの覆屋、拝殿・石華表(鳥居)など全て改新築を了し面目を一新した。
 慶長年間徳川家康より、社領一石五斗二升を寄進せられ社地一三二〇坪となる。慶安二年三代将軍家光入国のみぎり、前記社領朱印状を以て書き換えられ明治維新に上知となり、同六年村社、同四十年神饌幣帛料指定社となり、同年三月十三日下教来石字北原無格社神明社を合祀した。