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尚徳諏訪神社(下諏訪諏訪神社) 京都市下京区下諏訪町 20.11.19

 『京都新聞Web News』に「諏訪神社から尚徳諏訪神社へ 下京、町内会所有で新たな歴史」と載っていました。「尚徳学区自治連合会が、亡くなった宮司の後継者と協議。昨年末に諏訪神社の宗教法人を解散し、諏訪町町内会が所有することにした(抜粋)」というものです。そのため、町名をとって「下諏訪諏訪神社」としていましたが、「尚徳諏訪神社」と変更しました。

 金井典美著『諏訪信仰史』の〔諏訪御本地縁起の写本と系統〕から、一部を転載しました。

…やや北によった下京区の下諏訪町に坂上田村麻呂建立と伝える諏訪神社がある。この伝承が事実か否かは不明であるが、この神社が下社の系統であることははっきりしており、祭神は諏訪明神といいながら、タケミナカタとは別神としている。そして、同じく下京区諏訪開町の諏訪神社を上社として、対になっていることを今も神官が自覚し、…

尚徳諏訪神社

尚徳諏訪神社 西本願寺の近くにある「諏訪開諏訪神社」から取って返し、東本願寺を右に見て、今度は下諏訪町にある尚徳諏訪神社へ向かいます。
 こちらはすぐにわかりました。通りに面して鳥居があったからです。奥まで見通せるので、第一印象は「こざっぱりして、よく手入れがされている」でした。寄進者名が入った提灯が左右に吊られているのを見ながら参道を進みます。左手の社務所には冒頭の新聞記事が何枚か貼り付けてありました。
 「奉納」とある手水鉢に、「信州諏訪郡上諏訪町」と10名の「寄進者名」が彫られています。明治三年と新しいのですが、なぜ地元京都ではなく本社のある長野県諏訪市からの寄進なのでしょう。京都の石工に作らせたのは間違いありませんが、その繋がりがわかりません。

尚徳諏訪神社「大焚祭」 ここまでは“順調”だったのですが、参道脇に焦げた丸太が井桁に組んであります。何でしょうか。ごく最近に「神事のようなもの」があったと思われますが、修験道のような異物(遺物)には悩んでしまいました。
 「諏訪開諏訪神社」では狭い敷地に多くの境内社がひしめき合っていましたが、ここでは一社だけです。これがこの諏訪神社をスッキリ・整然とさせている原因とわかりました。見方によっては、これでは淋しいと言う人もいるかもしれませんが…。その後ろにはシュロが二本、緑の団扇を寒空に広げています。私には「寒い京都」がイメージですが、長野県の諏訪と比べればはるかに暖かいのでしょう。

尚徳諏訪神社「拝門」 “直線仕様”の参道と境内は見通しが利くので、あえて「突き当たりが拝門と慶応二年再建の本殿」と紹介しなくてもよさそうですが、諏訪神社の中枢なので「あえて」書いてみました。
 右脇の灯籠前に灯明台があり、ロウソク2本の炎が揺れています。私と違い、「諏訪神社」として参拝に来る人は皆無でしょうから、町内の人でしょうか。

京都尚徳諏訪神社「本殿」
提灯の神紋は「明神梶」

 本殿の写真を撮ってから、備え付けの箱にある「諏訪神社御由緒と御祭神」とある由緒書きを一枚いただきました。
 そのトップに、神紋の「明神梶」が印刷してあります。提灯や本殿大棟の神紋も「明神梶」ですから、この「下諏訪町にある諏訪神社が諏訪大社下社に対応している」という話は間違いないでしょう。
 この由緒書きには、「年中祭事」として11月17日「大焚祭」があります。何を焚き上げたのかはわかりませんが、その跡が「焦げた丸太」とわかりました。

諏訪神社御由緒

 住所が「諏訪町通五条下ル」と書いてある、諏訪神社の「由緒書」から転載しました。

御由緒
 第五十代桓武天皇の延暦十六年坂上田村麻呂、東夷平定、征夷大将軍の命を受けました。将軍はかねてより信州諏訪大明神を深く信仰し、御神威、御加護のもと赫々(かくかく)の戦果を挙げ、平安京に延暦二十年十月に凱旋いたしました。
 その御礼の為、都、五条坊門の南に社殿を造営、信濃より諏訪大明神のご分霊を勧請し祀られたのが当神社の創始です。爾来(じらい)星霜を重ね社殿も荒廃いたしておりましたが、第八十二代後鳥羽天皇の文治二年、源義経社殿を広め、樹木を植え池を造る等して、昔にまさる宏大な神域といたしました。
 第九十六代後醍醐天皇の建武年間兵火に遭い、旧観とみに変じ再び衰微するも室町幕府(室町通今出川上ル付近)三代将軍足利義満神馬を奉納し神域を復活せしもようです。
 第百八代後水尾天皇の慶長年間にも社殿の修復が行われ、更に徳川幕府五代将軍綱吉の頃には、境内に社殿復興のための大相撲興行も行われました。第百二十代仁孝天皇の元治甲子(きのえね)の年、禁門の変の兵火に遭い、社殿、悉(ことごと)く烏有(うゆう)に帰し再建も覚束(おぼつか)なかったが、第百二十一代孝明天皇再建の資として金百五十両と菊御紋提灯壱(一)対を御下賜下さるに及び大いに力を得、更に尚徳学区先人各位のご努力と相俟(あいま)って慶応二年再建の業、完成いたしました。
 青丹よし奈良の都より、平安京遷都以来の京都の歴史が即(すなわち)、尚徳諏訪神社の歴史であり、今日に及ぶ次第であります。 (以下略)

「諏訪の社(やしろ)

 サイト『国際日本文化研究センター』の〔データベース〕に、安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』が収録してありました。その中から、〔諏訪の社〕を転載しました。

諏訪の社(やしろ)は五条の南二町諏訪の町にあり、祭所信濃国諏訪の社と同神なり 獣肉を喰ふもの此社の神箸をうけて食す、汚穢なしとぞ、

 「神箸」は「鹿食箸(かじきはし)」のことで、「鹿食免(かじきめん)」とともに現在も諏訪大社上社で購入できます。最近はジビエの代表格として出回り始めた鹿肉ですが、それに挑戦する前に「お守り」として手に入れておいた方がいいかもしれません。ただし、“大当たり”しても、これは「お土産」なので諏訪大社にクレームを付けてはいけません。