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京都にもある御射山諏訪神社 京都市中京区東洞院六角下ル御射山町

中京区御射山(みさやま)町にある諏訪神社

 伊藤富雄著『伊藤富雄著作集 第一巻』に〔御射山祭の話〕があります。〔京都諏訪社の御射山祭〕から、冒頭の部分だけを転載しました。

 京都東洞院三条南にある諏訪社は、その始めを審らかにしませんが、足利尊氏の信仰を受けた神社であります。貞和四年(1347)四月五日、尊氏は霊夢の告により、諏訪社法楽のため、自らその子命鶴丸と共に、十番の笠懸を射、なお太刀一振・馬一疋を奉納しています。法楽とは神慮をなぐさめ奉る催しをいうのであります。また室町幕府は将軍元服の際、この神社に神馬を奉納するのが例となっていました。
 長野県諏訪市在住の郷土史家原直正さんは、『オール諏訪』の〔京都諏訪神社と蛙狩り神事〕の中で以下のように書いています。
(前略) その円忠(※小坂円忠)等京都の諏訪氏は、都を南北に通じる現在の東洞院通りが六角通り、および蛸薬師通りと交差する中京区御射山町の付近一帯に居住していたという。江戸時代には「諏訪町」と呼ばれていたが、祇園祭に「御射山」という山鉾を出したのを記念して「御射山町」と改められた。今、その一画に「御射山公園」があり、憩いの場となっている。
 かつて、ここに勧請されていた諏訪社は、足利尊氏の信仰を受け、室町時代、この社で「御射山祭」が行われたというが、明治になってこの諏訪社は、近くの家の内庭に遷されているという。

 これで、「諏訪神社(大社)上社──諏訪開諏訪神社・諏訪神社(大社)下社──尚徳諏訪神社・御射山社──御射山諏訪社」の形態が、そのまま京都の中心部に造られたことがわかります。言い換えれば、京都のど真ん中に「なぜ諏訪神社が三社もまとまってある」のかが理解できます。

御射山諏訪神社は一般的でないので「御射山諏訪社」とします。

 金井典美著『諏訪信仰史』の〔狩猟神としての諏訪信仰〕から、一部を転載しました。

 今日中京区の御射山町の丸橋家の内庭に諏訪神社があり、もとは中京区の区役所のあたりにあったのが、明治以降建物の敷地にとられて移転したとのことであるが、どうやらこれが円忠の家が祀っていた諏訪神社であったらしい。(『雍州府史』巻二、東洞院三条南の諏訪社もこれのことか。)
京都御射山諏訪社
国土交通省『国土画像情報』

 ここに「諏訪神社は、中京区の区役所のあたりにあった」とあるので、航空写真では最も古いと思われる、米軍が昭和21年10月に撮った〔京都市中京区〕を用意しました。
 で囲ったのが、区役所の庁舎です。

 文献を読み、「辺り」であっても旧鎮座地がほぼ特定できたことで、京都御射山社の「その後」に大いなる興味を持ちました。しかし、“排他的”と言われている京都に、馬の骨の私が乗り込んでも門前払いになるのは明らかです。そこで、その消息を、ネットで得られる情報のみでどこまで追えるかを試してみました。

御射山諏訪社の鎮座地

 京都の住所は“複雑怪奇”ですから、まず「御射山町」で検索してみました。その結果、「ウイングス京都」の入口にある銅板プレート写真を見つけました。

 ここは御射山町(元日彰学区)です。
 町域は、南北の東洞院通をはさみ、北は六角通から南は蛸薬師通に至る、天正時代に豊臣秀吉が町界を定めたとされる、両側町となっています。
 町名の由来は、信州霧ヶ峰の旧御射山遺跡に諏訪大社の末社である御射山神社があり、それが現町名となったと伝えられています。
 なお、現在も町内には諏訪社が祀られています(後略)
日彰自治連合会 

 京都には「んっ?」という、一般の辞書には載っていない言葉がよく出現します。「学区」は早く言えば住民自治組織で、「両側町」は「通りをはさんだ両側を単位とする町組」のことだそうです。読み流しても差し支えありませんが、細かいことにもこだわってしまう私はつい調べてしまいました。
 また、Blog『蘭鋳郎の日常』※1には、「(諏訪神社は)ウイングス京都の北側にある日彰自治会館が建っている辺りと言われています。社がなくなった後も、御神体は町内の旧家が守ってこられましたが、今日では八坂神社にお預けになったそうです」と消息が載っていました。

古絵図に見る御射山諏訪社

 旧鎮座地が「六角堂の“右下”」とわかったので、京都に残る古絵図がどのように表(あらわ)しているのかを調べてみました。
 京都大学付属図書館蔵『古地図コレクション』のサイトから、『洛中絵図』※2の一部をお借りしました。

『洛中絵図』 寛永14年(1637)の作とありますが、極限まで“おおらかに”に読んでも「御射山」とはほど遠い字でした。念のために、同じ京都にある尚徳諏訪神社をこの絵図で参照すると、かすれていますが「下すはノ町」とあります。
 「下」以下が同じ字とわかったので、「すはノ町」と読むことができました。しかし、御射山ではなく諏訪と表記してあることが不思議です。

『京大絵図』 こちらは、『国立国会図書館デジタル化資料』から、貞享3年(1686)刊『京大絵図』の一部です。『電子くずし字字典データベース』を参照すると、「すはの丁」と読めました。
 ここで、前出の〔京都諏訪神社と蛙狩り神事〕を熟読すると、「祇園祭に御射山という山鉾を出したのを記念して御射山町と改められた」とありました。そのため、それ以前の絵図では、諏訪(すは)と書いてあるのは当然のことでした。自分で書き写したものですが、肝心なことをすっかり忘れていました。

 国際日本文化研究センター『所蔵地図データベース』に、宝暦4年(1764)とある『名所手引京圖鑑綱目』※3がありました。まず「六角」を探し、その右下に目を転じると[スワ社]がありました。

『洛中絵図』 ここでは、スワ社の左に「御い山丁」とあります。「い」は、どう譲歩しても「射(さ)」とは読めませんが、それでも「御射山丁」であるのは間違いありません。
 睨めっこを続けると、ふと、「射」を「い」と読んだ可能性があることに思い至りました。町名を変更してからまだ日が浅いので、「みさやま」と読むことが周知されていなかったのでしょう。当時の印刷は版画ですから、画数の多い漢字を嫌ってひらがなに直すということで生じた誤字と断定しました。これで、『京大絵図』(1686)が出版されてから80年の間に御射山町と改名したことになります。
 さらに調べると、国立国会図書館『レファレンス共同データベース』に、「回答」※4として以下のものがありました。

現在の町名は中京区御射山町(みさやまちょう)という。参考資料によると、寛永14(1637)年の「洛中絵図」から享保3(1723)年の「京都図」までの町名は「すはの丁」「諏訪町」「諏訪之丁」と表示されている。
 その後、寛保(1741〜44)年間の「京大絵図」では「御射山町」となり、宝暦12(1762)年刊『京町鑑』にも「御射山町」と記載されているので、18世紀の中葉頃には「御射山町」に変ったものと思われる。(後略)

 これによると、1723年から1744年の間に、現在まで続く御射山町に改名したことになります。

古文献に見る諏訪社と御射山諏訪社

 サイト『国際日本文化研究センター』の〔データベース〕に、江戸時代の“ガイドブック”『拾遺都名所図会』が収録してあります。これは、「『都名所図会』の後編として天明七(1787)年秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である」と説明があります。

御射山諏訪社 東洞院通六角の南、御射山町人家の奥にあり、信州諏訪明神を勧請す、鎮坐の年記詳ならず、毎歳七月廿七日祭式を修す

 それにしても、京都は今も昔も見所満載の「都」ですから仕方ないとしても、御射山諏訪社の紹介が二行だけという扱いには諏訪大社の氏子としては不満があります。そうは言っても、江戸時代での社殿の規模は“この程度”だったということなのでしょう。

京都の御射山祭

 再び『伊藤富雄著作集 第一巻』の同章から抜粋しました。「京都東洞院三条南にある諏訪社は、(中略) 室町時代、京都諏訪社でもまた御射山祭が行われました。まずその御狩については、(もうぎゅうひようおうらい、と読んでみた)『蒙求臂鷹往来』に…」として、「原書は漢文」と断り書きがある一文を引用しています。

次に来る廿七日は、諏方社神事につき、信濃守(しなののかみ)贄狩り興行の間、奇鷹をとり上げらるべきの旨、御兼諾たる哉、当日は毎年一擲(いってき)の狩也、先廿六日終日狩之あり、(以下略)

 ここに出る「廿七日」が『拾遺都名所図会』にもある「七月廿七日祭式」で、諏訪大社では現在も行われている「御射山祭」の中日です。
 同じく、「『蔭涼軒目録』に次の如くみえています。…」として、紫野馬場で笠懸が行われたことを引用しています。

助蔵主云く、昨日廿七は諏訪明神祭日也、仍(よっ)て上原豊前守(ぶぜんのかみ)笠懸(かさがけ)を興行す、紫野(しめの)馬場に於て之有り、(以下略)

 〔京都諏訪社の御射山祭〕の章は長文なので、関係する部分だけを抜粋しましたが、最後に“他力本願”のまとめとして、再びこの章の最終部分を転載しました。

 当時京都は我が国文化の中心であったにも拘わらず、御射山祭は御狩神事をもって行われています。また、催物の笠懸も、動物犠牲の古風を伝えています。この如きは信州本社の祭儀を、忠実に移し伝えたが故で、諸国分社御射山祭のあり方も、皆左様だったのであります。

御射山諏訪社の本殿は八坂神社へ

 前出のBlogに「八坂神社にお預け」とあるので「八坂神社 御射山」で検索すると、加藤隆久編『神葬祭大辞典縮刷版』が見つかりました。表示した〔八坂神社の祖霊社〕の項から、関連するものを引用しました。

(前略) 下京四区御射山町の諏訪社を境内に移し、祖霊社とすることを明治十年十一月十四日、内務卿大久保利通に願い出たが、十二月二十一日不許可の指令があり、(後略)

 またもや出現した「下京四区」は、前述の「元日彰学区」のことでした(京都の紹介にはホトホト手間が掛かります)。
 続いて、『官幣中社神社明細帳』にある明治十五年の文書を挙げて

(前略) 境外地であれば建設を許可するむね通知があり、祖霊社建設が実現したものであろう。
 その後、同『明細帳』に、(中略) また、官幣大社八坂神社財産調書の昭和二十一年一月二十五日の項に、祖霊社の規模が檜材、銅板葺流造建坪五合九勺五才との調書があり、これの登録は明治四十四年六月十四日である。現在の社殿様式、また建坪とは同様で建設当初のものと思われる。

と書いています。この中で、「建坪五合九勺五才」がわかりません。「合・勺」は尺貫法の体積なので誤記ではないかと疑いましたが、念のために調べると「1坪=10合」とありました。単純計算で「0.6坪」になりました。
 この本から、御射山社の社殿(本殿)が八坂神社の境内にある「祖霊社」として使われていることがわかりました。今度は「八坂神社 祖霊社」で検索すると、幾つかのHP・Blogが表示しました。当然ながら「祖霊社」の説明なので、御射山社との関係は不明のままです。

八坂神社「祖霊社」
八坂神社「祖霊社」(写真提供 『いこまいけ高岡』)※5

 八坂神社の祖霊社です。正面なのでわかりづらくなっていますが、向拝柱が無く屋根のカーブも直線ですから「流造」ではありません
 また、この写真では木肌の風化が見られないので、最近新築した社殿と思われます。『神葬祭大辞典』には「現在の社殿様式、また建坪とは同様で建設当初のものと思われる」とありますから、2003年の発行当時は“当初のもの”だったのでしょう。

 社殿は転用されても「御神体」はどこかに残っているはずです。「近くの家の内庭・町内の旧家が守ってこられました」という記述がいつの時代のものかはわかりませんが、それが「今日では、八坂神社にお預け」まで追跡できました。
 合祀とすれば、八坂神社の末社「十社」内に祀られた「諏訪社に合祀」が妥当な流れですが、「お預け」では、まだ落ち着く場所が決まっていないのかもしれません。

御射山諏訪社は、今も御射山町に 27.6.28

 前出の『諏訪信仰史』では、「丸橋家の内庭に諏訪神社(御射山社)が…」と書いています。その丸橋家の当主からメールがあり、「現在は、わが家のビル屋上に鎮座されております」と、その消息を知らせてくれました。

 ビルの建設時に御霊代を八坂神社へ一時遷座させたそうですから、ネットの情報「お預け」は、その時点では正しかったことになります。これで、町名の元になった御射山諏訪社が、現在も「御射山町」を見下ろしていることになりました。

※1 http://77422158.at.webry.info/201003/article_20.html
※2 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/maps/map070/lime/map070.html
※3 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/34_o.html

※4 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000047791

※5 http://takaoka.zening.info/index.htm