硫黄沢神社 カーナビが「硫黄神社」を表示したので、まずそこに、と諏訪神社を横目に「国立信州高遠少年自然の家」へ向かう道をとりました。「硫黄の神様」か「硫黄の塊」を祀ってあるのかと勝手に想像をたくましくしましたが、結果は旧村社とある「沢」が抜けていた「硫黄沢神社」でした。
駐車場がないのがわかっていたので、手前の空地に駐めました。そのため、後で裏参道と分かった鳥居からの境内入りとなりました。
拝殿の掲額に「諏訪社」、正面の蟇股に神紋「諏訪梶」を確認して御堂垣外(みどうがいと)の諏訪社と初対面しました。諏訪大社本宮と前宮の間にある道標「南・御堂垣外宿」を見たことが縁でした。
一段上にある覆屋ですが、格子が薄いアクリル板で覆われているので、背後の光が映り込みよく見えません。手で覆って覗くと、本殿は一間社流造でした。
神社サイトならここで彫刻の話になるのですが、(その手の話が苦手なので)本殿の定紋幕が「明神梶」で染め抜かれている・正体不明の「腰懸原大明神」の額が本殿前に立て掛けられている、とだけ紹介します。
案内板等がないので、詳細は(無期限の)後ほど、とお茶を濁して早速まとめに入らせてもらいます。神紋は、拝殿の大棟と蟇股が「諏訪梶」ですから、定紋幕の「明神梶」と神庫(蔵)の「立ち梶の葉」が気に入りません。諏訪梶か立ち梶の葉に統一して欲しいのですが、それぞれに歴史(理由)があるのでしょう。
境内社に「藤ノ宮」があります。ここの字(あざな)が「藤沢」で「藤沢」姓も多いことから、何か関連があるようですがわかりません。
この地は「御堂」の「垣外」ですから、「垣内の御堂があるのだろうか」と眺めると、川向こうにそれらしきものが確認できます。橋が見当たらないので、国道から入り直すことにしました。
由緒がありそうな唐破風とナマコ壁が残る民家脇の小道を上ると、傾いた鳥居とうらぶれた“小堂”が現れました。
堂内に「神明不測」の額が掛かっています。「神の心は推し測ることができない」という程度の理解としましたが、揮毫した人と思われる「源圀武」さんの「源氏姓」に戸惑いました。
おばあさんが、前の畑で野菜の手入れをしています。「ここの人」ではない(嫁に来た)ので詳しくは分からない、との前置きの後で、幾つかの話をしてくれました。「祭る人がいなくなったので別の人が管理している。何の神社か分からない」「金沢峠に抜ける道は、今でも墓地の上に道が残っている。今の新道を造るときに地主が代替地として畑にしたのでそこで途切れている」と、諏訪神社の右肩辺りを指差しました。
名称不詳の神社から諏訪神社へ戻るときに気が付いたのですが、近道として通った道(左写真)が旧道でした。現在の国道は手前から左へ大きく迂回しているので、「道の長さ」だけですが、当時の景観を思い浮かべることができました。
その突き当たりに石碑があります。しかし、異常なほどの達筆で、目を細め・見開き・さらに斜めから透かしても、脳内に蓄積したどの字とも一致しません※。それが理解できなくても、その下が「右江戸・左諏方」と読めるので、これが道標であることがわかります。現代の私と同系列に置くことはできませんが、江戸時代の旅人でも下半分だけ見て右左に別れて行ったことは想像できます。最下端の字も?でしたが、上からの繋がりで「道」と読めました。
神社前には、その時は数えたのですが、今となっては十数基としか思い出せない「庚申」があります。覆屋内に明治期の神社合併の木札がありましたから、その時に近在から集めてまとめたのでしょうか。これだけあると壮観です。
「水杯」の時代です。旅人は例外なく諏訪神社に立ち寄って道中の無事を祈ったのでしょう。その、庶民には徒歩しかなかった時代を追体験しようと、拝殿を振り返りながら教えられた旧道に踏み入りました。前述の道標にある「右江戸」の道です。
山側の斜面には小さな石祠が点在しています。それらに目を留めながら、地蔵堂を左に墓地を右に見て進みます。
今日は、傘を開くと止んでしまうという“天気雨”が何回かありました。現在は曇り色の御堂垣外宿の家並みですが、その向こうの山並みには移動するスポットライトが当たりその部分だけ緑の斑が輝いていました。
足元に目を戻すと、馬頭観音が幾つか、まだ枯れ葉が優勢な土に足を埋めています。その先は話通りの畑でした。上に迂回と思われる小道が延びているのを確認して、往復で数分という小さな疑似街道旅を終えました。
平成21年3月になって、国武さんの消息がわかりました。岡谷市『東堀区誌』からの抜粋です。
「腰懸原大明神」は、『藤澤村史』にある元禄と明治の古文書から「諏訪神社の別称」とわかりました。