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湯舟沢諏訪神社 岐阜県中津川市神坂 20.8.7

 地図を見て、「クアリゾート湯舟沢」を駐車場に決めました。スケールで測ったわけではありませんが、そこから歩いて5分と踏んだからです。
 馬篭諏訪神社から、「エッ、こんな近くだったの」という、距離感を全くつかめないまま駐車場に着いてしまいました。観光地でもないのになぜここに、というホテルが隣接しています、ホテルと「クアハウス」が“二施設同体”ということなのでしょうか。「クア」とあるからには単なる温泉ではない、と思っていた通り、屋内プールが窓越しに見えます。飛び回る子供達を横目で見ながら、熱せられた舗装の終点である諏訪神社への坂道に取り付きました。

湯舟沢諏訪神社

神坂諏訪神社

 黒御影石の社標「諏訪神社」を左にして鳥居を仰ぐと、こちらは「諏方社」でした。二壇構成の杉林の底を同じ二段の石段を使って上り詰めると、眩しく思えるほど明るい境内に出ました。右手に、昼時とあって短い陰を落とした新しい舞台があります。今の時代では当然とも言えますが、その正面がシャッターで占められているのを初めて見ました。奥正面の壇上に石鳥居が立ち、…後の説明は写真を見てください。

神坂諏訪神社本殿 馬篭諏訪神社と同じような拝殿奥(本殿前)の格子戸ですが、こちらはそれを透かして幣帛が四本見えます。しかし、案内板がないので、相殿の神々の名前はわかりません。
 右に廻ると、本殿より先に中空の大切り株に目が行きました。“目測で両手を広げた径”としましたから、長径では2m近くはあったでしょう。神木に相応しい大木ですが、今は株の中心に立てた延長線上を見上げるだけです。枯れてからかなりの年月が経っているようで、草に埋もれた黒い株は、キノコも見向きしないほど朽ちていました。

神坂諏訪神社 本殿は、立ち寄り参拝者には嬉しい「覆屋なし」です。しかし、拝殿との連結部が格子で、その前部も透かし塀の玉垣で囲われているので本殿の正面が見えません。その代わりというか、屋根は目視フリーですから大棟に神紋が仰げました。「立穀(梶の一枚葉)」です。このような「梶」紋が見つかると「諏訪神社に来たなー」という実感がわきます。
 改めて拝殿前に戻り、気になっていた「大石」へ向かいました。

神坂 注連縄が掛けられていますが、頼りとする案内板の字が消えているので、どんな謂われがあるのかわかりません。「諏訪明神が腰掛けた」にしては座り心地が悪そうですから、他の言い伝えがあるのでしょう。
 見落としがないかと再び境内を一巡しました。オニヤンマにとっては私が侵入者なのでしょう。警戒するように、先々を付かず離れずの距離を保って旋回しています。
 舞台脇の日陰で、汗がひくまで小休止としました。しかし、神社入口ではホッとするような風を感じましたが、それもここまでは届かず、Tシャツの胸元には汗が黒い染みとなって点々と付いています。それが誘引剤になっているのでしょう。境内からの照り返しで明るいのですが蚊が寄ってきます。産毛が風になびくような感覚に反応した手が“まだまだ”という速さで払ってくれますが、それもわずらわしいので舞台の日傘を後にしました。
 鳥居下から見下ろすと、直下が「クアリゾート湯舟沢」です。地図では、近くに「神坂コミュニティ消防センター」がありますから、かつては長野県西筑摩群神坂村の中心地であったのかも知れません。

越県合併

 私は、子供まで巻き込んで村が二分したという越県合併を覚えていません。改めて調べると、大騒動になった合併は「島崎藤村騒動」と呼ばれ、「馬篭村と湯舟沢村が合併して神坂村となった。50年前に旧湯舟沢村分だけが岐阜県中津川市と合併した」とその経緯が書いてありました。さらに「47年を経た平成17年に、長野県に残って山口村に編入した旧馬篭村が(神坂村と同じく)中津川市と越県合併した」とありました。
 神坂村の名は知っていましたが、旧湯舟沢村の存在をこの時初めて知りました。「馬篭」の諏訪神社と「神坂」の諏訪神社は、その規模と距離から、かつての郷村である「一村一社」ではないかと思ってはいました。これで、「旧湯舟沢村」と「旧馬篭村」の諏訪神社が、それぞれの産土社であったことが確定しました。そのため、旧村の名前を尊重して、「神坂諏訪神社」としていたのを「湯舟沢諏訪神社」と替えました。

諏訪社 村社 社一間三尺方、構營(こうえい)、横二間三尺、縦四間三尺、朱引内東西十九間四尺、南北三十七間、面積七百二十六坪、本村南方味噌野にあり。祭神武御名方命、天照大神、伊謝那岐大神、誉田和気命、伊謝那美大神、木花開耶姫命なり。祭日九月十七日・二十八日。社地中に杉椹等老樹あり。

長野県『長野県町村誌』から「山田村
明治初期では、山口村と田立村が合併して「山田村」