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佐支多神社と神庭諏訪神社は「御射山社と諏訪社」

佐支多神社 佐支多神社の参拝を済ませ、「さあ帰ろうか」と車を駐めた神社入口に向かいました。ところが、今歩いている参道の続きと思われる道が、広い道を挟んでさらに延びています。
 その先を目で追うと、鳥居が小さく望めました。それが佐支多神社の鳥居なら、かなり長い参道となります。周囲の景観から、佐支多神社の参道が新道にカットされたことが想像できました。最近は必ず表参道の鳥居をくぐることにしていますから、その鳥居が一ノ鳥居なのかを確認することにしました。

佐支多神社一ノ鳥居

 鳥居をくぐる前から、その先へ続くはずの黒い舗装が切ったように消滅しているのが見えます。その境には草が生えていますが、舗装した道が地中から湧き出たかのように再び彼方の山際まで続いています。「ここで行き止まりとはおかしい」と思いながらアスファルトの縁に立つと、何と、見下ろした底に茶色の砕石とレールが…。
 右側を見ると、線路敷きの法(のり)面に沿って下に降りる小道があります。最近は踏切以外の線路を通ったことがないので、何か罪悪感を感じながらレールを跨ぎました。今度は左へ登る道をたどると、先ほど見えた山まで続く道のスタート位置に立ちました。「どこまで続くのだろう」とその先に向かうと、終点は前に山が立ちはだかったT字路でした。

ここは御射山

反対側から見た佐支多神社
突き当たりから佐支多神社を振り返る(上に電車の架線)

 突き当たってから山を背にして振り返ると、当然ながら、一ノ鳥居の枠内に二ノ鳥居と佐支多神社が小さく望めました。もうこのままでは帰れません。少しでも詳しい情報を、と見回すと、草刈をしているお年寄りがいます。訊くと、この道沿いの住人でした。

 佐支多神社周辺は、国土地理院の地図では「御射山(みさやま)」と表記しています。その場所を自分の目で見るのがここへ来た目的の一つだったので、御射山の住人が登場したのは願ったり叶ったりでした。
 「鉄道が通るので参道を掘り割ったと聞いている。(御射山は)初めは6軒だったが今は12軒に増えた。公民館は『御射山』の名がついているが、自治会は『荘原』で、今では御射山の名は使われない。参道を挟んだ左右が御射山地区」と話してくれました。
 念のために、突き当たりとなった「山の向こうは」と尋ねると、何と「諏訪神社」だと言います。「頂上に古墳があったが今はどうなっているか」と、私にとっては追い風とも言える大いなる興味を提供してくれました。登る道があると聞いたので、丁重(ていちょう)に礼を言って別れました。

分断された御射山社の参道
線路敷の堀割上から佐支多神社

 いったん線路際まで戻ると、タイミング良く遠くに警笛が聞こえ踏切の警報音が鳴り始めました。もう待ちきれない、と諦めかけた時に撮ったのが左写真です。構図を決め、置きピンとシャッターのタイムラグを計算しながら、音の変化とわずかな視野を横切る電車に向けてシャッターを押しました。やや力が入って狙ったフレームが下がってしまいましたが、それでも鳥居の全景をギリギリながら収めることができました。

諏訪神社へ

 シイタケのホダ木も置かれた普通の山道でしたが、それが踏み跡に変わり、今は人間が歩いた痕跡がまったくない藪漕ぎとなりました。ちょっとした小山ですから強引にピークを目指しました。高みを二つばかり越すと、「なーんだ」という、先ほどまでいた神庭諏訪神社の境内に飛び出てしまいました。
佐支多神社古道 左写真は、神庭(かんば)諏訪神社の境内奥にあった「古道・神庭塚神」とある道です。先ほどは道が途絶えていたので引き返したのですが、その古道を佐支多神社から登って来たことになりました。
 佐支多神社へは、「左だ右だ」と言われるがままの方向感覚を必要としないカーナビ任せだったので、両神社がこんなに近接しているとは思いも寄りませんでした。

 これで、字(あざ)御射山の謎が解けました。「佐支多神社は、荘原小学校の東から移転したと伝えられている」と先ほどの男性から聞いていましたから、佐支多神社の前身が「神庭諏訪神社の御射山社」であったことが確実となりました。これで、かつては、総本社の「諏訪大社─(摂社)御射山社」に対応していたことになります。
 裏参道経由で佐支多神社へ戻りましたが、境内と隣り合わせで「御射山自治会館(公民館)」がありました。自治会は「荘原」と聞いていましたから、「御射山」の名が残っていることに安堵しました。

佐支多神社の「馬場」

 斐川町図書館は閉館間際だったので、著者名まで確認することはできませんでした。また、本の名を『出雲国神社史の研究』と挙げましたが、これも今となっては自信がありません。この中に〔『雲陽誌』に見る勧請神社の研究〕があったので、諏訪神社分だけを抜粋して転載しました。

 諏訪明神として注目すべき社に、今一社、出雲郡上庄原の諏訪明神がある。ここでは明治以来これを「風土記」にいう佐支多社(さきたのやしろ)であるとしたため、今では表面上諏訪色は覗えないことになっているが、それでいてこの社を俗に「御射山さん」という慣行は残している。(略) この本宮にゆかりの深い「御射山」という言葉がここには残っている。残念ながらその経緯を伝える文書・記録などは少しもないが、ただ今でも参道の両側には馬場の地形が残っていて、そこで弓引き神事を行ったという話は伝えられている。
 (略) 総合すると、出雲における諏訪神の勧請は、結局南北朝の末ごろから来住し出した武将によって行われだし、そして武将が勢いを得、いわゆる国衆化することによっていよいよ盛んになったものと考えることができよう。(略)

 ここに「今でも馬場の地形が残っている」とあるので、航空写真で確認することにしました。

御射山・佐支多神社 『GoogleMap』では新しすぎるので、国土交通省『国土画像情報』から、「古道」がハッキリと確認できる昭和22年撮影の航空写真を用意しました。
 初めは、山際まで続く参道を「流鏑馬(やぶさめ)馬場」と考えました。一般的な長さは120間(218m)ですから、それが十分入る直線距離だったからです。
 しかし、「参道の両側・地形」とあるので、「笠懸馬場や犬射馬場とすべき」と考え直しました。そこで、あくまで“私の見た目”ですが、それらしき場所を片側だけ「推定地」として囲ってみました。

 『雲陽誌』では諏訪明神の祭祀に「7月27日」を挙げていますから、かつては御射山祭として神庭諏訪神社から御幸し、笠懸の神事が行われたのでしょう。もちろん、今で言う「古道」を通って御射山社(佐支多神社)へ向かったのは間違いありません。


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