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佐支多社と諏訪明神(考) 29.7.28

 出雲市斐川町荘原に、佐支多(さきた)神社が鎮座しています。この神社は『出雲国風土記』(以下『風土記』)所載の「佐支多社(さきたのやしろ)」とされていますが、『風土記』には登場しない建御名方命を祭神としています。
 石塚尊俊著『出雲国神社史の研究』から、〔『雲陽誌』に見る勧請神社の研究(諏訪明神)〕の一部です。

 諏訪明神として注目すべき社に、今一社、出雲郡上庄原の諏訪明神がある。ここでは明治以来これを「風土記」にいう佐支多社(さきたのやしろ)であるとしたため、今では表面上諏訪色は覗えないことになっているが、それでいてこの社を俗に「御射山さん」という慣行は残している。

 『風土記』関連のサイトでは、それに載る佐支多社の「論社」として、この佐支多神社を挙げています。しかし、未だ、可能性のある神社としての枠内に留まっています。

佐支多神社

 佐支多神社はこのサイトでも紹介していますが、私の視点で少し掘り下げてみることにしました。ただし、諏訪の図書館には「出雲大社」関連の本しかないので、ネットの情報が基本となります。

『出雲国風土記』

 今回は、“又引用”で済まさないという決意の基で『風土記』を読むことにしました。『国立国会図書館デジタルコレクション』内を探すと、天和三年(1683)の写本が公開されていました。
 関係する部分だけなので、一気に飛ばして〔出雲郡〕を開くと、郡内の神社を羅列しています。最後の方に「…布西社・波加社・佐支多社・支比佐社・神代社…」と並び、「以上六十所並不在神祇官」でまとめていました。
 「鈔(抄)云」では、「当郡式内杵築社(出雲大社)・御魂社…」で始まり、これも最後のブロックに「…布西社・波加社・佐支多社不知其所在也」で終わっています。内容は「その所在は不明」が加わっただけですが、前出の「神主がいない」とともに、『風土記』が成立した天平五年(733)でも、佐支多社は“名前だけ”になっていたことが遅まきながら私の知識に加わりました。

『雲陽誌』

 享保2年(1717)編纂の『雲陽誌 巻之八』から、〔出雲郡〕を転載しました。因みに、ここに出る上庄原村と下庄原村は、明治22年に学頭村・宇屋神庭村・三纏村と合併し「荘原村」が成立しています。

上庄原

諏訪明神 健御名方命なり、本社二間四面、拝殿も二間四方、天文年中に新建の棟札あり、祭祀正月十七日田植の神事、七月廿七日九月九日獅々舞あり、

稲荷明神(略)※現 御射山稲荷神社

荘厳寺 禅宗醫養山と号す、本尊薬師如来坐像長一尺七寸行基の彫刻、(後略)、

 斐川町荘原にある佐支多神社は、この時代では、健御名方命を祭神とする「諏訪明神(諏訪神社)」です。つまり、『雲陽誌』が編纂された以降に「佐支多神社」と改称したことになります。

神庭諏訪神社と上庄原諏訪神社の関係

神庭諏訪神社
神庭諏訪神社

 ここで、現在の佐支多神社を仮称「上庄原諏訪神社」として話を進めます。概要は「神庭諏訪神社に対する御射山(みさやま)社が上庄原諏訪神社ではないか」という話です。

 「御射山・御射山祭」については白紙の方が多いと思われるので、前出〔『雲陽誌』に見る勧請神社の研究(諏訪明神)〕から[上荘原の諏訪明神]の一部を転載しました。

 御射山とは諏訪の本宮(現諏訪大社)上社の東南方三里ばかりの所にある御狩場の称で、そこに今では御射山神社と称する摂社がある。往時はその広場で年々七月二十六日から三十日まで諸国の武将による弓技・相撲を主とする奉納行事が行われていた。

 斐川町荘原(旧上庄原村)に、「御射山」の小字(こあざ)があります。そこに鎮座するのが上庄原諏訪神社(佐支多神社)です。「御射山に諏訪神社」ですから、上庄原諏訪神社は御射山社の性格が濃い、と言うより御射山社そのものとすることができます。
 御射山社は、諏訪神社があって初めて成立する神社です。つまり、御射山社は単独で存在することはないので、近くに諏訪神社があることになります。それが、直近に鎮座する神庭諏訪神社です。

神庭諏訪神社−佐支多神社ライン 上庄原諏訪神社の社殿は、神庭諏訪神社の方向を向いています。上庄原村には背を向ける格好ですから、村の鎮守社と言うより、神庭諏訪神社と一体のものとすることができます。
 神庭諏訪神社は、かつては神庭谷の奥にあり(元宮)、350年前(神庭諏訪神社由緒)に現在地へ遷座したことがわかっています。その遷座場所には法則があると睨み、元宮・神庭諏訪神社・上庄原諏訪神社をグーグルアース上に表してみました。

 予想通り一つのライン上に並び、遷座の前後でも「諏訪神社−御射山社」の関係を保っているのがわかります。つまり、神庭諏訪神社は、元宮と上庄原諏訪神社とを結ぶ線上に新しく造営したということです。これで、かつては、「総本社諏訪大社−(摂社)御射山社」の出雲版がこの地にあったことが明白になりました。

 実は、本稿に手を入れる前は、「御射山祭と称して、神庭諏訪神社から古道を通って佐支多神社に御幸し、笠懸の神事が行われた」と書いたことがあります。しかし、残念(不思議)なことに、字(あざ)「御射山」が残っているのにも関わらず古文献に御射山祭のことが載っていないことから、“この話”を引っ込めていました。
 それが、ここに来て、(文献に書かれていないことを逆手にとって)「御射山祭が行われたのは元宮の時代」とすれば、「御射山祭」が伝承や文献に残っていなくても不思議ではないことになりました。

 出雲の「御射山」については、奥出雲町三成鎮座の諏訪神社に、「御射山」の記述がありました。案内板から、一部を転載しました。 

 神社の背後地にある「武者山(みさやま)」は、諏訪大社と不可分の「御射山」を示す由緒ある地名である。

もう一つの御射山社

再び『雲陽誌』

 『雲陽誌』から〔下庄原村〕を転載しました。下庄原村は、現在の斐川町荘原の中では荘原駅周辺と思われますが、長野県人の私には正確に伝えることができません。

下庄原

伊勢宮 内宮外宮をあわせまつる、本社二尺に三尺・拝殿一間半に二間、鳥居あり、祭日九月朔日七座の神事あり、勧請建立年しれず、

(略)

普賢寺 禅済家(臨済宗?)三佐山と号す、本尊普賢菩薩坐像長一尺一寸運慶の作、開山分明ならず、境内河伯池(かわくのいけ)というあり、小僧淵という所もあり、昔当寺の小僧を河伯という水獣とりたるとて土人此池の名とす、

宗玄寺 真宗東本願寺の末派、本尊阿弥陀、恵心の作なり、

(後略)

伊勢宮

伊勢宮・佐支多社
「伊勢宮」space「佐支多社」

 左は、佐支多神社の拝殿にある社額です。当初は「なぜ伊勢宮が」と疑問でしたが、〔下庄原〕を読んで、明治22年の合併時に、佐支多神社に伊勢宮を合祀したものと理解できました。ただし、旧鎮座地には、現在も小規模ながら「伊勢ノ宮」として存在しています。

下庄原村にも御射山社の存在(可能性)が…

 「伊勢宮の謎」は解けたのですが、それより普賢寺(ふげんじ)の山号「三佐山」が気になります。普賢寺の近くに「御射山社」があり、山号はその社名に因んでつけた可能性を思ったからです。
 その山号「三佐山(御射山)」について、長野県諏訪郡原村にある御射山深叢寺(みさやま・みさざんしんそうじ)を挙げてみました。深叢寺がある旧中新田村が諏訪大社上社の摂社である御射山社の境内と接しているのが由来です。この事例から、下庄原村の御射山社は、決して突拍子もない話ではないことがわかります。
 また、「上・下」とある二つの庄原村には同じ読みの宗玄寺と荘厳寺があるので、三佐山と御射山が同じように対応しているとも思えます。

『正保出雲国隠岐国絵図』
国立公文書館『正保出雲国隠岐国絵図』

 これは「両村が張り合った」とするより、元は一村だった庄原村が分村した際に、同じような村づくりをしたためと考えました。旧庄原村については、「松平乗命旧蔵本」とある正保2年(1645)の古図(左)を御覧ください。

 また、これは消極的な推測ですが、本社諏訪大社上社の本地仏が普賢菩薩であることから、普賢寺は御射山社の別当寺という関係も見えてきます。

 次に、その普賢寺の場所を突き止めれば御射山社の消息がわかるかもしれないと考えました。しかし、ネットの情報では斐川町近辺に見つけることができません。御射山社が早い時点で消滅(もしくは伊勢宮へ合祀)した関係で、普賢寺も『雲陽誌』記載以後に廃寺の道をたどったとするしか説明が続かなくなりました。

 以上、「三佐山は御射山に通じる→御射山社があった」という自説を展開してきました。しかし、取り留めのないような考証ですから、真っ先に「この限られた地域だけに諏訪神社が四社あることは疑問」との声が挙がるでしょう。これは、

上庄原村 御射山社−神庭村の諏訪神社(上社)
下庄原村 御射山社−学頭村の諏訪神社(下社)

の関係とすれば納得できるかと思います。

普賢寺の普賢菩薩を考慮すれば、上社と下社は入れ替わる?
学頭諏訪神社
学頭諏訪神社

 全国には、隣村でありながら、上諏訪神社と下諏訪神社を別個に勧請している例が多くあります。そのことから、この地でも、中世にこの地を治めた為政者が信州から諏訪神社を勧請した際に、領地四村をまとめ上げようと、本社に完全対応させた諏訪神社を造り上げたと考えてもおかしくはありません。

伊勢宮と諏訪明神(佐支多神社)・宗玄寺と荘厳寺

 インターミッションとして、隣村に当たる学頭諏訪神社と神庭諏訪神社を含めた位置関係を〔Google MyMaps〕の衛星写真に表示させてみました。


新川跡(新しい川なのに“跡”とは、これ如何に!? )

 以前、昭和23年に撮影した荘原周辺(上写真では右上部分)の航空写真を見て、「何だ、これは」と疑問を持ちました。

新川跡
国土交通省『国土画像情報』

 初めは河川と思いましたが、拡大すると、帯の内側には小路や人家がありますが、中央部が更地のように空白になっています。「ナスカの地上絵をも凌(しの)ぐものが戦後間もない出雲にあった」としましたが、知らないのは私だけという可能性もあるので、騒ぎ立てることなくお蔵入りとしました。
 長らく「不思議」で済ませてきましたが、本稿を書く中で解決しました。そのきっかけは「斐伊(ひい)川は、江戸時代の付け替え工事て西から東へ向きを変えた」のを知ったことでした。その経緯を知ろうと「斐伊川 東進」で検索する中で見つけたblog『神名火だより』に、明解な答えがありました。〔素盞鳴尊の大蛇退治と斐伊川治水(とっても長文)〕から、[江戸時代の宍道湖]の一部を転載しました。

http://blog.goo.ne.jp/kannabi-dayori/e/e4df6a00a11af2387ab55555afc53981
 江戸時代後期には斐川町の我が家の近くでも川違えがおこなわれ、丘陵地帯を切り開いて新川と呼ばれる人工の川が作られました。流れてきた土砂を宍道湖の浅瀬に導き埋め立て、斐川町の東半分が新しい農地です。新川は約100年後の昭和15年で天井川になり廃川されましたが、その河床には出西の旧海軍大社飛行場、荘原の街、出雲空港があります。

 五万分一地形図から、関係する部分を切り取って用意しました。昭和9年当時ですから、新川が“川”として載っています。

斐川町「新川跡」
参謀本部『大社四号(共三面)』

 ここに寺社などを書き入れると、普賢寺は、新川の開削で移転もしくは廃寺の道をたどったと説明がつきます。
 以上、自説に有利な“環境”が整ったことになりますが、それとともに、近世を含む出雲の歴史を知らないまま「あれこれ」考察するのは、大変“危険”なことであると身を持って実感することとなりました。

再び「佐支多神社」

 大正15年刊行の、後藤蔵四郎著『出雲国風土記考証』から〔佐支多社〕を抜粋しました。

 今、庄原に、佐支多神社と名づけて、武御名方命を祀るものは、もと諏訪神社といって居たものである。風土記の佐支多社は、それに当たるかどうか未だ明らかでない。

 ここでは「庄原」です。「庄原」の誤植としましたが、出雲の古絵図を眺めていたら、下庄原村で間違いないことに気が付きました。

『出雲国十郡絵図』
島根大学附属図書館 桑原文庫『出雲国十郡絵図』

 文化年間(1804-1813)編纂とある、新川がまだ開削されていない時代の古図です。これを眺めると、内が現在の小字「御射山」に相当しますから、諏訪明神(佐支多神社)が下庄原村に鎮座していたのは間違いないことになりました。

『雲陽十郡絵図』
島根大学附属図書館『雲陽十郡絵図』

 一例だけでは心許ないので、天保年間(1830-1844)とある古図も用意しました。『雲陽誌』は享保2年(1717)編纂ですから、約120年後のものとなります。
 これも、まったく同じ下庄原村地籍です。試しに現在の字界を調べたら、「上荘原・庄荘」として、今でも変わっていないことが確認できました。
 『雲陽誌』の間違いとも思えません。せっかくここまで“のめり込んだ”ので頭を絞ると、「諏訪明神(佐支多神社)の社地は、上庄原村の飛地としか考えられない」となりました。分村に当たって、“こうするしかない”何かの事情があったのでしょう。

 最後に、なぜ「佐支多神社」なのかを超発想で考えてみました。
 佐支多神社が鎮座するのは、尾根先端の下部です。等高線から見ると、尾根下に平野部よりやや高いテラス状に突き出た平地があります。ここに作られた「田」を、地元民が「崎田」と呼んだことは容易に想像できます。それを前提にすると、明治期の神社明細帳に登録する際に、佐支多社を名乗る神社がないことを知って、「それならオラの鎮守様を」と手を挙げて改称したことが考えられます。神代社(かむしろしゃ)などは“本社争い”もあったようですから、ハッキリした社伝がない場合は早い者勝ちだった可能性もあります。

御射山稲荷神社 次は、佐支多神社の境内にある稲荷神社です。稲荷社に、何れも「さき」と読む「先・崎・前」の名が多いのが知られているからです。
 現在は「御射山稲荷神社」ですが、これは明治期の神社合併時に近隣から移転してからの名称でしょう。旧鎮座地では「さき」が付く神社名だったことも考えられます。
 また、御射山の隣に小字「前原(まえばら)」があるので、古称が「さきばら」だったとすれば、「佐支多」に通ずるとして採用したこともあり得ます。以上、何れも“こじつけ”に近い話ですが、なにがしかの真実があるかもしれません。

 ネットの情報で、『荘原歴史物語』と『郷土斐川物語』が刊行されていることを知りました。両書には、ここに書かれている以上のことが載っているはずです。いつかは閲覧してみたいものです。