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葦原神社「諏方本社と流鏑馬頭」 下伊那郡大鹿村 22.10.11

 所在地「大鹿村大字鹿塩字梨原」とある葦原神社は、明治41年の神社合併で、諏方神社を始め村内の神社を合祀して現在の名称になりました。

諏方本社大明神 そのため、一之鳥居は「葦原神社」ですが、旧来のものと思われる二之鳥居には「諏方本社大明神」の額を掲げています。「本社」は「もとやしろ」と読み、地元では「諏訪大社の本社は大鹿村の葦原神社」と言い継がれています。
 平成22年10月に再訪した時は、参道入口の道標「歴史の路・秋葉古道」には「諏訪大社里宮 葦原神社」と書かれていました。しかし、この名称に準じると、諏訪大社は「奥宮」となってしまいます。諏訪大社のお膝元から来た私は、「えー」と、声なき声を上げてしまいました。

 鳥居の額束の裏に、“棟札”が打ち付けてあります。左側に「諏・訪」(正確には言偏が二つだけ)が読み取れたので、写真に撮って帰りました。しかし、拡大しても、文字の部分がわずかに凹凸として残っているだけでした。しかし、仮に鳥居の造営年や寄進者がわかっても、木部の朽ち具合では昭和以降と思われるので、何の解決にもならないとわかりました。

『梨原家文書』

 “大鹿村の言い分”については頭越しに否定せず、その根拠を史料の中に探してみました。

 混同を避けるために、引用を除き、葦原神社は合併前の「諏方神社」と表記しました。

 大鹿村誌編纂委員会編『大鹿村誌』の第1章に〔葦原神社〕があり、『梨原家文書』を引用した部分があります。『梨原家文書』は『南信伊那資料』にある〔梨原諏訪社〕の由緒と同じ内容ですが、数行ほど別の記述があります。

諏方神社「伝」
 大鹿村鹿塩字梨原鎮座、諏訪神社祭神は建御名方命にして、その創建遼遠(りょうえん※はるか遠い)に渉(わた)り詳(つまび)らかならずといえども、太古大国主命の御子に二子あり、長子事代主命は天津神の勅を奉ずれども、一人建御名方命は勅を奉せずして天使の二神と大に戦い逃れて洲羽国に至り、今の下伊那郡佐原に於いて和を講じ(御手形石の古跡あり※佐原諏訪神社)、
 それより命鹿塩に入り葦原(今転化して梨原という)に行宮(あんぐう)を建て、暫く山野に御狩をなされ、山塩を発見して自ら捕獲せられし鹿肉の調理に用ゆ、故に地名を鹿塩村と号す、
 しかして今諏訪に御遷居在らせられたる霊跡にして、今本殿の下に八尺四方位の塚あり、御分霊のおさまります所なりと伝う、後人是を尊崇し一社を創立して勧請す、これに依って古来諏訪大社の御柱祭には、大祝にては幕を張り鹿塩桟敷を設け特に待遇せられしをもって、当方にては惣代をもって饌物を供し参拝せし例なりき、古くより社前の額書に諏方本社と画かれたり、

 これを読んで、明治34年に編纂された『南信伊那資料』と同一の文であるのにも関わらず、戦後(昭和23年)に改称された「諏訪大社」を用いていることに疑問を抱きました。改めて両書を突き合わせると、『南信伊那資料』にはアンダーラインの部分がありません。さらに、この部分を飛ばして読んだ方が文脈の整合性が高まります。そのため、「今本殿の…」と「古来諏訪大社の…」の件(くだり)は、戦後に“書き加えた”可能性があると見ました。

諏方神社本殿

葦原神社 元治元年(1884)再建の本殿です。
 前述した『梨原家文書』の続きに、文久4年(1864)「御宮再建御普請中記録帳」が載っています。宛先が「鹿塩梨原村・御村衆中様」とあるその一部を転載しました。(◯◯)の読みは我流です。


一、今般御宮再建に付(して)は諏方大祝へ元諏方儀に御座候間(あいだ)、右再建の趣(おもむき)相届願可申候(もうすべくそうろう)事、当春代参之者に願可申候(もうすべくそうろう)相談に御座候、

 本殿の再建にあたって、「諏方神社は諏訪神社(現諏訪大社上社)の元社なので、大祝に再建の趣旨を願い出る相談をしたい」という内容です。この後どうなったのかは不明ですが、この年から本殿が完成するまで20年もかかったことを考えると、本社と“一騒動”あったのではないかと想像してしまいます。その憶測は別として、鹿塩村ではこの関係を認識していたことがよくわかります。

諏訪本社大明神と鹿塩桟敷

 『大鹿村誌』の中世の章に、〔4 諏訪上下社領ではなかったか。との説〕があります。『梨原家文書』とほぼ同じ内容です。

鹿塩には諏訪神社に関係する幾多の伝説がある。

本洲羽 鹿塩の地は古くは「本洲羽」といわれた。その故は建御名方命が鹿塩の険によって高天原軍を防いだからだという。

諏訪本社大明神 鹿塩梨原の葦原神社には、古い鳥居に「諏方本社大明神」の額が掲げられている。本社は「もとやしろと読み、建御名方命が行宮を建て、しばらくこの地にとどめられて後、諏訪へ移られたので、この社を本社というと伝えている。

鹿塩桟敷 諏訪神社の祭典には、鹿塩のために桟敷が設けられていて、これを「鹿塩桟敷」といったと古老は伝えている。 (後略)

鹿塩桟敷

 やはり外せないのが、『梨原家文書』にある「鹿塩桟敷」です。〔4 諏訪上下社領…〕では「諏訪神社の祭典」とありますが、〔諏方神社「伝」〕では「御柱祭」とあるので、御柱曳行の見物桟敷が考えられます。しかし、諏訪の史料には「殿様桟敷」や高遠藩主の「高遠桟敷」がありますが、「鹿塩桟敷」については見つけることができません。

流鏑馬頭と御頭郷

 「鹿塩桟敷」がまったくの“架空もの”とは思えません。発想を変えて中世までさかのぼってみました。

 まずは、「御頭」の“定義”です。すなわち「頭」に敬称が付いたのが「御頭」で、「輪番で諏訪神社の神事に奉仕する頭番(当番)役、あるいは頭役」を意味します。それに特定の神事名が付いたのが、以下に出る流鏑馬頭(やぶさめとう)です。

流鏑馬頭 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』に、嘉暦四年(1329)の『諏方上宮五月会(さつきえ)付流鏑馬之頭・花会頭与可為同前(と同前たるべし)御射山頭役結番之事』が載っています。
 早い話が、「五月会の流鏑馬・花会・御射山の各御頭を14のブロックに分けた一覧表」です。この1ブロックでその年の祭礼を奉仕するので、14年毎に御頭が回ってくることになります。この“委嘱状”は、(諏訪神社ではなく)幕府が「下知状」として出します。この中に、「鹿塩」が見られるグループがあります。その「二番五月会分」を抜き出しました。

左頭−棒庄半分陸奥左近太夫將監

右頭−狩田郷内東條和田隠岐入道

流鏑馬頭−赤須・遠山・甲斐治(沼)・大河原鹿塩地頭等

御射山左頭−塩田庄半分陸奥入道、右頭海野庄内岩下郷海野次郎左衛門入道、知行分国分寺南條善哉塩野両郡地頭等

(中略)
 相模守平朝臣高時(※北条高時)

 このように、鹿塩の地頭が下知状を受けると、諏訪神社上社で行われる「五月会」の内、5月6日に行われる「流鏑馬」を他の4地区と合同で負担金を含めた御頭運営を取りしきります。御頭は、納税の免除などの見返りはあっても「一生の財産を無くす」とも言われる大役ですが、幕府の命令なので逆らうことはできません。
 しかし、幕府が弱体化した戦国時代では「お祭りなんかやっていられるか」ですから、御頭による神事は徐々に衰退して自然消滅の道をたどりました。

御頭郷

 江戸時代に入り、高島(諏訪)藩主が群馬から帰城すると、三代藩主諏訪頼水は、慶長19年(1614)に諏訪郡を14の郷に分ける「新しい御頭制」を敷きました。これが今に続く「御頭郷」です。この御頭郷が、御頭の中で唯一残った「御頭祭(酉の祭り)」に奉仕します。したがって、江戸時代からは、旧鹿塩村の名が載る史料はないことになります。

 これまでに挙げた事柄を混同すると(わかっていないと)、時代もシステムも違う中で漠然とした「御頭郷」を唱えることになります。大鹿村関連のサイトでよく見られる「御頭郷の席順」は、正にこれでしょう。

鹿塩桟敷は、中世の桟敷

 すでに、ターゲットが絞られていることは承知していると思います。つまり、鹿塩村で取りざたされている「桟敷」は、中世の流鏑馬神事で設置された桟敷となります。流鏑馬を運動会に例えるのも変ですが、「本部席」がまさに該当します。その本部長が鹿塩の地頭だったということでしょう。
 結局、この違いが頭にないまま(古老の話にある)「席次」を論じているので、諏訪から見れば「何なのか、よくわからない」ということになります。

梨原氏

 葦原神社を再訪した帰りに、せっかくここまで来たので村の図書館に寄ってみることにしました。案内板がないので役場に行くと「図書館はないが、郷土の本なら、ろくべん館に置いてある」と紹介してくれました。
 「中央構造線博物館」と並立した「ろくべん館」では、職員が私の目的を聞いて梨原氏の消息を当たってくれました。今は松本市在住ということで連絡先を教えてくれましたが、その話の中で、当主からの聞き取りでは「鹿塩桟敷は鹿塩座」ということでした。