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大武川諏訪神社(諏訪神社中社) 北杜市 21.4.12

 駐車場の道向こうにある、参道入口を含めた諏訪神社の境内全域がネットで囲われています。「参拝無用」など聞いたことがありませんから、諏訪神社の「何か」を保護する柵でしょうか。近づくと、「感電注意」の札が掛かっています。ここで有害獣用の電気柵と気が付き、連想した「盗難や盗掘の過剰防衛」が思い過ごしであることにホッとしました。
 車体に「砂防パトロール」とある車が止まり、難なく素手で開閉しています。どれどれと間近で観察すると、出入口の開閉部分だけは普通のネットでした。今度は自分の番ですが、見た目は大丈夫でも…。100Vなら「ビリビリ」で済みますが、このところ40年余り感電したことがないので、低電圧でもショック死が考えられます。樹脂のポール部分を持って慎重に外しました。

大武川諏訪神社(諏訪神社中社)

 一目でわかりました。拝殿は、諏訪大社上社の「御宝殿」です。式年造営で建て替えた時に、古宮をここへ移築したのでしょう。大武川地区は山梨県ですが、長野県の懐のような場所ですから、通学区を始め生活の場は長野県諏訪郡富士見町になります。その縁で、越県の移築が実現したのでしょう。

大武川諏訪神社 「上に見える壇は何だろう」と上ってみると、水路の堤防でした。水平なので二壇構成の境内を想像していましたから、思わぬ出現に驚きました。「なぜここに」ですが、見回しても、答えてくれる人はいません。

大武川諏訪神社 農業用と思われる水路は、拝殿と本殿覆屋の間を見事に“貫通”しています。その上が渡殿(わたどの)ですから、この光景が見られるのは日本でもここだけかもしれません。一体、いつの時代にこうなったのでしょうか。

 覆屋の窓を覆っている、かつては透明だった薄い樹脂板も今では紫外線で白濁しています。わずかに残った透明部分からのぞくと、諏訪では見慣れない「神明造」の本殿でした。

 駐車場に戻ると、車の横にヘビが! 気配を察知したのか、頭を持ち上げたまま固まっています。青いので“青大将”としましたが、何もない舗装の上ではヘビの思惑とならず、動きを止めてもその存在を大きくアピールしています。そのため、落ちているヒモを測るように、約1.5mと測定できました。
 足を踏み鳴らしても微動だにしません。小石を転がすと、ようやくストップモーションが解けたかのように前進を始めました。「車の下を通過して藪の中へ」と予想したラインは当たりましたが、ホイールの内側に頭を置くようにして、隠れたつもりでしょうが、再び時間を止めてしまいました。何回か石を転がして藪まであと1mという距離まで撤退してもらいましたが、また固まりました。

 ここは、一般(他地区)の人が来るような神社ではありません。いつの間にか近づいた軽トラックが、私を不審者と見たのでしょう、駐車場に半分乗り入れて停まりました。私が言い訳のようにヘビを指差すと、男性も驚いたのか車から降りてきました。視線が倍になったのを感じたのか、イヤイヤをするようにくねらせて藪の中へ消えて行きました。
 私には絶妙のタイミングで現れた彼に、神社のことを聞いてみました。「会議があるので(勤めを)早退して帰ってきた。今度氏子総代になるので神社の整備を考えている。拝殿は諏訪大社の御宝殿で、平成3年にこちらから解体に行って譲り受けた。水路は昔からある。川の近くだが水の便が悪いので、1キロ先から釜無川の水を取り入れている。電気柵は6キロある。サルは木を伝って出てしまうので決定的な効果はない」など、忙しい中にも関わらず私が望む情報を話してくれました。

 最後に、(資料を忘れたために)「神社にまつわる石」の存在を聞いてみました。しかし、漠然とした名前では無理もありません。答えは「知らない」でした。
 ヘビとの遭遇を長々と書いたのは理由があります。「諏方明神」とは言いませんが、使命を受けた“眷属のヘビ”が、地元の人が来るまで私を引き留めたように思えたからです。

大武川岩

 境内を探索する中で、『甲斐国志』に出る「大武川岩」に登ってみました。この辺りでは目立つ存在なのでしょう。頂部には、「金刀比羅宮」の祠がありました。

大武川岩から富士見町
大武川岩から長野県側を眺める

 下部が釜無川で、対岸が長野県諏訪郡富士見町の集落になります。大武川に住む人々は、いったん橋を渡って長野県に入り、それから自県の各地に向かうという手順になるそうです。長野県は「馬篭」を岐阜県に取られてしまいましたから、その穴埋めを「大武川地区は長野県と合併を」と、つい無責任な考えも浮かべてしまいます。

大武川岩
 大武川岩

 二週間後に、対岸にある国道から撮りました。左半分が大武川諏訪神社の杜です。右が「大武川岩」で、石灰岩の岩盤だそうです。

諏訪神社中社

 大武川諏訪神社へ行くきっかけとなったのが、『甲斐国志』にある大武川村〔諏方明神〕の「諏方明神上ノ社下ノ社(現諏訪大社上社・下社)の外に本祠を加えて三箇所の諏方と称し、中ノ社と記せり」とある記述です。

 確かに、大武川諏訪神社の額束(鳥居額)には「諏訪神社中社」とあります。しかし、『甲斐国志』では、この「中社」を「(上中下の関係ではなく)この方をとして称した」と補足しています。
 この「内」をどう捉えるのか悩んだ末に、これは大武川諏訪神社を中心に据えた言い方と気が付きました。つまり、大武川諏訪神社に向かって右(近い)方が上社・左(遠い)方が下社とする神社の位置関係ということです。これで、武居祝の旧記を紹介したものの、『甲斐国志』の編者がそれを否定した文となります。結果として、大武川諏訪神社は、あくまで諏訪大社の分社ということになりました。

 大武川諏訪神社には興味が尽きない事跡がまだ詰まっていますが、ここまでとします。『甲斐国志』に書かれた〔諏方明神〕に興味がある方は、以下のリンクでご覧下さい。


‖サイト内リンク‖ 『甲斐国志』「諏方明神・大武川村」全文