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乙事諏訪神社 諏訪郡富士見町乙事 14.8.16

 長野県神社庁では「諏訪社上社」ですが、ここでは通称の「乙事諏訪神社」で表記しています。

 乙事(おっこと)諏訪神社の社殿は、諏訪大社の前身「諏訪神社上社本宮」の幣拝殿を移築したもので、昭和5年に国宝に指定されました。現在は、火災による復元再建と昭和25年施行の文化財保護法により、「幣殿」のみが重要文化財に指定されています。

乙事諏訪神社
乙事諏訪神社例祭 25.9.23

乙事諏訪神社の案内板本殿がない!? 案内板を読んでいる家族連れから、「本殿がないんだって」との声が挙がりました。どれどれと文字を追うと、そう解釈するのも無理はないという、“私設”の案内板によく見られる句読点がない説明文でした。
 これは、「本殿を有しない神社の珍しい例である諏訪神社(神宮寺)の神前建物として元和三年に建立されたものであるが」とここまで一気に読んで、(その建物が)「嘉永年間(に)この地(乙事)に移建されたものである」と続けてください。「本殿を有しない」のは、あくまで諏訪市神宮寺にある諏訪神社(現在の諏訪大社上社本宮)のことなので、混同しないようにしてください。
 老婆心から、“本殿を有していた”ことを証明する文献を二例挙げておきます。いずれも抜粋です。

乙事諏訪神社の沿革
延享二年(1745)両社(乙事諏訪神社上社・下社)とも本殿を新築することになり、(中略)下社を先に、上社をあとにすることで話し合いがつき、…

国宝指定と保存
帳屋、片拝殿、本殿は焼失してしまったが、幸いにも国宝指定の拝殿、幣殿は全焼をまぬがれた。

富士見町『富士見町史 上巻』

乙事諏訪神社の本殿

乙事諏訪神社「本殿」 側方から社殿を見渡すと、異常に背高でのっぺりした覆屋が、優美な幣拝殿とのバランスを崩しています。しかし、覆屋の使命は本殿を保護することにあるので、その姿をどうのこうのと非難することはできません。
 その覆屋も開放部は前方の一部だけとあって、本殿は庇の先だけしか見えません。再び幣拝殿の正面に戻りましたが、ここでも幣殿と片拝殿が近接しているので、本殿はその一部しか見せてくれません。場所を変えてようやく撮ったのが、左の写真です。

火災の修復跡

扠首組の火災跡 幣拝殿が火災に遭ったことは冒頭で挙げました。その“意識”が常に支配していたのか、幣殿の扠首組(さすぐみ)が焼けこげているのを見つけてしまいました。改めて注視すると、他にも同じような部材が使われています。その痛々しい木肌から火災の激しさが想像できます。この柱を再使用したのは、文化財修復の一手法として、「乙事諏訪神社は火災に遭った」という履歴を残すためなのでしょうか。赤く塗られてはいますが、炭化してひび割れた柱が、もう火事は起こしてくれるなと訴えているようでした。
 町教委ではなく地元乙事区の設置ということもありますが、多くの人が頼りとする案内板には、あるがままを記して欲しいものです。昭和23年というと終戦間もない頃で、まだ食べるだけで精一杯という時代です。国宝とはいえ神社の管理まで手が回らなかったのでしょう。「水の便が悪く」とありましたから、消火栓はもちろんのこと、水道もなかったと思われます。「村人が必死で桟唐戸(扉)だけは何とか持ち出した」と書き添えてあれば、ここを訪れた人は、焼けこげた部材を見ても納得するでしょう。時代背景も「無形」文化財です(なんて偉そうなことを言える立場では…)。

乙事諏訪神社の御柱

 社殿の周囲を一廻りしたときに、「これは大きな御柱だ」との印象を受けました。ところが、御柱の表示板を何気なく見て、その配置が違っていることに気が付きました。本来は、本殿を正面にして右側が「一之御柱」ですが、ここでは「二之御柱」になっています。私にとっては重要な疑問ですから、これは近隣の住民に訊くしかありません。しかし、それを思い出したのは、自宅へ戻ってからのことでした。

幣殿の「桟唐戸」

 長野県富士見町『長野県 富士見町史 上巻』を開くと、乙事諏訪神社は昭和23年4月3日午後10時に境内の帳屋(舞屋)から出火「全焼は免れたものの柱・梁・貫などの表面が炭化、調度の彩色は落ち傷みはひどかった」「桟唐戸(さんからと)は持ち出したが、破損がはなはだしく格狭間の組子は大破した」とありました。
乙事諏訪神社「桟唐戸」 桟唐戸については、「扉さえ完全に残れば小火ということでおとがめもなく修理ができた。村人もそれを知っていて真っ先に取り外して避難した」と補足説明がありました。
 全焼だったら、乙事諏訪神社の再建はなかったでしょう。破損したとはいえ桟唐戸が残ったために、「計画から2年半、総工費182万円で何とか国宝に再指定された」という修復事業は、まとめれば一冊の本になるほど幾多のドラマがあったようです。

幣殿に見られる「梶紋の飾り金具」

 諏訪大社上社の神紋「諏訪梶」は、増澤光男著『諏訪の国風土記』によると、「その長い歴史の中にはかなりのバリエーションがあり、最終的に落ち着いたのが現在の様式」とあります。その変遷図に載っている乙事諏訪神社の梶紋を見ようと、改めて乙事諏訪神社を訪れました。

4根の梶
「諏訪梶」拝殿破風板

 記載通りに、飾り金具に打ち出された神紋が場所により違っていました。火災熱により微妙な凹凸がなくなっているものもありますが、根の数が違う・枝や葉の形が違うなど一定ではありません。
 前書では、「焼損により新たに作られたものは(4根5根など)当てにならない」とあります。しかし、国宝(当時)に限らず文化財の修復は限りなく原本に忠実に復元されるはずです。『富士見町史』にも、「金具は大部分が旧材を使った」とあります。

5根の梶
「明神梶」幣殿唐破風貫中央

 「梶をモチーフにして自由なデザインでこの社殿を飾り立てた」と考えてみました。しかし、一通り確認すると規則性があるようです。
 諏訪大社上社でお馴染みの4根の「諏訪梶(上)」が、幣殿の一番目立つ破風板に3枚あります。大口寄進の高島(諏訪)藩主が、「大金を出すからには家紋を」と優先的に場所取りをしたのでしょうか。
 5根の「明神梶(中)」は、虹梁中央と左右の梁にあります。その下の階段から高欄にかけては多くの金具がありますが、確認できた範囲内は全て「5根の立穀(下)」でした。

5根の立穀
「立穀5根梶」高欄

 単純にその場所を「上下のランク」と考えれば、諏訪梶→明神梶→5根の立穀(一枚葉)となります。これに、分社に多い(根無しの)立穀を加えれば、[→]が梶紋の序列となります。ただし、あくまで“見た目”のランク付けなので、他の諏訪神社に当てはめることはできません。
 いずれにしても、“商標登録”がなかった時代に「大祝や諏訪藩主・上社や下社が、それぞれにつながりのある中で紋の差別化を計り、神紋として確定した」と、変遷の流れを紹介している『諏訪の国風土記』は興味深いものでした。

乙事諏訪神社の本殿

 現在の本殿は、旧乙事諏訪神社下社から移築したものです。これは、旧乙事諏訪神社上社が昭和23年に焼失したために生じた両社の合併によるものです。この経緯は、諏訪史談会『復刻諏訪史蹟要項』から「乙事諏訪神社」の一部を転載したので参考にしてください。

 火災の不幸ありけるも氏子は之を復旧するの決意をなし文部省及県当局と協議を重ねた。
 国宝として存続する事に決するや、この機に長年の懸案ないし、一村一社殿を実行したいとの議起こり、惣代は之につき世論調査をなし氏子総会に於いてその了解を受けた。
 区会に於いては直ちに上下社殿合併を決議し其の実行を修理委員会に一任した。委員会に於いては下社本殿を上社に移建することとなし仝年九月上旬移建工事を終わり上下社殿合併の実を揚げ得しは全く氏子の協力の賜である。
 県教育委員会に於いては本文化財の保護保存に対する氏子の協力を認め昭和二十五年文化の日に乙事区民を表彰した。

昭和12年以前(焼失前)の乙事諏訪神社幣殿

昭和初期の乙事諏訪神社本殿 宮地直一著『諏訪史 第二巻後編』の「図版・第46図」に、消失前の乙事諏訪神社の写真がありました。昭和12年の発行に合わせて撮った写真と思われますが、当時は覆屋があったことがわかります。また、屋根が檜皮葺で社殿額が懸かっているのが見えます。

乙事諏訪神社の御柱 25.9.23

 御柱の配置が通常と違っていることは以前に書きましたが、これは、合併時に本殿を旧乙事諏訪神社下社から移築する際に、「旧蹟地(下社)に向かって御柱を建てること」が条件だったと(勝手に)考えていました。
 平成25年に例大祭を見学する機会があり、参列していた諏訪大社大総代から話を聞くことができました。「御別当社だった時代は、社殿が右側に向いていた。江戸時代に諏訪大明神を勧請して旧乙事諏訪神社上社になっても、以前の配置をそのまま踏襲した」ということで、ガッテンしました。

御別当大明神

御別当大明神 帰りに境内を一巡りしていたら、境内社の中に「御別当大明神」を見つけました。この石祠が話にあった御別当社であるとすれば、産土社として現役だった頃は、八ヶ岳を正面にしていたことになります。
 祠に銘があるのかを確認する中で、唐破風内にある神紋が「三つ巴」であることに気が付きました。この神紋を基にすれば、御別当大明神社は八幡社だった可能性があります。
 幾つかの疑問点を解消させるために、『長野県 富士見町史 上巻』を開いてみました。

 乙事村には、古くから鎮守神とか産土神、または氏神を祀る神社が二社あって、この二社は、ともに文化八年(1811)諏訪明神を勧請して乙事諏訪神社上社・下社といった。たまたま、昭和23年上社が火災にあい、復旧にあたって、下社の本殿を上社に移して本殿とし、上社・下社を合併して一社とすることにし、現在の乙事諏訪神社となった。
 上社は、はじめ御別当社として室町時代の延徳二年(1490)、いまの地に鎮座したといわれる。(中略) 御別当明神は産土神であったが、この地方が諏訪明神の神領であった関係から、やがて諏訪明神の別当神としてまつられるようになったと思われる。

 決定的な文言がないので推察の範囲を超えませんが、八幡神は、産土神の地位を諏訪明神に明け渡したことになります。また、大総代の「社殿が右側に向いていた」との話を乙事諏訪神社の一之御柱と二之御柱の位置を基準に地図で参照すると、御別当社は、八ヶ岳連峰でも「権現岳」を正面にして鎮座していたことがわかりました。


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