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芝平諏訪神社 伊那市高遠町芝平 21.3.18

 『長野県神社庁』のサイトで、高遠町の「芝平」に諏訪神社があることを知りました。また、「芝平ってどこにある」と調べる中で、「しびら」と読むことを学びました。

いざ芝平へ

 添付の航空写真は、国土交通省『国土画像情報』からお借りしました。昭和51年に撮影した一枚の写真から、関係する部分を切り取ったものです。

弘妙寺(昭和51年) カーナビに誘導されて無事お寺の前に着きました。目の前に「バスの転回場」とありますから、ここまではバスが来るのでしょう。「駐禁」その他の表示がないので隅に車を置かせてもらいました。弘妙寺とあるお寺は見上げただけですが、想像していたより大きな“山寺”でした。反対側には「御宿 分校館」の看板があります。廃校を利用した旅館のようですが、こんな所に泊まる人はいるのでしょうか。
 頭の中に書いた地図から、「道沿いにあるはず」と山室川に沿いに進みますが、それらしきものもありません。聞こうにも人の姿がありません。多くの家は荒れていて無住のように見えます。

荊口(昭和51年) 集落も終わりか、という道下の一軒に軽トラが停まっているのが見えました。ゴミが散乱している玄関に驚きながらチャイムを求めて指先を上げたものの、ボタンがありません。戸を開けて声を掛けると、背後から返事が来ました。
 「諏訪神社へ行きたいのですが」と訊くと、かなりの間を置いて、「次の部落」「橋を渡れば神社」と言います。言い訳にも聞こえた玄関先の散らかりように無関心を装って、それとなく話を続けました。「下で商売をしている。今は住んでいないが時々見回りに来る」と言います。何か、この集落の特殊性がわかりかけてきました。
 「諏訪」神社の名前が出ないことにやや不安を感じましたが、具体的な場所を挙げましたから間違いないでしょう。しかし、「あのカーブを曲がったら・あの山裾が開けたら」との予測はことごとく外れ、谷底の異常に青い水を眺めながら延々と歩き続けました。

芝平諏訪神社

 火の見櫓が見えると、消防団の屯所と数軒の家が現れました。「洗濯物が干してある・車が駐まっている」ことだけでは、先ほどの例もありますから、ここに住んでいる証拠にはなりません。続いて、一目で校舎とわかる建物が見え、道沿いに「芝平の里」「芝平分校跡」の石碑が並んでいました。その碑文です。

芝平地区は広大な山林と石灰石に恵まれ村全体が豊かな生活を営む事ができたが、終戦後国の施策が工業立国を推める様になり過疎化が進み、昭和五十三年最後に残った三十戸が集団移住をよぎなくされ七百有余年続いた芝平の幕を閉じたのである。

芝平航空写真(昭和51年) ここで初めて「芝平は廃村」とわかりました。それでも“ダムの底に沈んだ”わけではないので、先を急ぎます。
 道の左右に石の幟枠があります。文字は厚いコケで覆われて判読できませんが、神社があるのは間違いありません。「もう目の前」も諦めかけた頃、川向こうに赤い屋根の神社らしきものが見えました。その右隣に、あえて「普通の」と付け加えてしまう家が一軒だけあります。車も駐まっていますから別荘でしょうか。
 ようやく「橋を渡れば神社」が実践できました。しかし、右方の“家目”が気になります。私に気が付けば「不審者」と思うかもしれません。もっとも、私も「不審家」と見ていますから「あいこ」でしょうか。


芝平諏訪神社

芝平諏訪神社 鳥居の前に立つと、神社の左方には堤防に沿った平地が続いていました。完全な平坦地ですから田の「跡」でしょう。日陰に残った雪を見てから鳥居をくぐりました。
 灯籠の「文化十二年・氏子中」を確認してから宝珠の下部を見ると、…「巴紋」です。諏訪社を否定する確率が一気に上がりましたが、拝殿には「諏訪神社」の掲額が掛かっていました。
 賽銭箱に「昭和十四年・小樽市・北原(某)とあり、上にも同名で「奉納・宝蔵蔵屋根葺き替え」が掛かっています。芝平から北海道に渡って、それなりの成功を収めた人でしょうか。その40年後に廃村となり、さらに平成21年の今日、芝平とは縁も所縁(ゆかり)もない私がここに立っているという「取り留めのない繋がり」が不思議でした。

芝平諏訪神社

 目的を達したお礼を込めて、深々と拝礼をしました。扉に手を掛けると、…開きます。小さな社殿が三棟並んでいました。諏訪神社ですから中央がその祠と思われますが、左右の祭神がわかりません。半開きの扉の中を注視すると、幣帛に文字が見えます。廃村になった今も村を見守っている神様です。また、芝平にとってはヨソ者の私です。上段に上がって確認するのは控え、写真を撮るのみとしました。
 改めて拝殿を見回すと、軒下に、入力用の電線が切られたまま垂れ下がっています。ここでまた「廃村」を見てしまい、声にならないため息が出てしまいました。一通りの“調べ”を終えたためか、行動の節々に聞こえていた瀬音を背中一面に感じました。

灯篭 境内社を巡りました。割れていることから木彫りとわかった面長の「蚕玉様」以外は、祭神不詳の石祠でした。池底に敷き詰めたような朴(ホオ)の葉を見て振り仰ぐと、かなりの大木です。今は葉を落としていますが、この木が朴の木であるのは間違いないでしょう。
 池中に灯籠があります。「何かおかしい」と改めて見直すと、火袋と笠が絶妙なバランスをとっています。竿は傾いていませんから、意図的に置いたとしか考えられません。「イタズラで落とす人もいない」という廃村を象徴しているようにも見えました。
 帰りに、渡る前に気が付いていた石の幟枠に触ってみました。橋からかなりずれた位置・その傾き・周囲の散乱状況から、当初は鳥居の正面に向かう橋があったのでしょう。洪水で流されて、新たに造ったのが現在の「明神橋」でした。

 「すぐあるはずの積み重ね」でしたから、往路は時計を見ずにここまで来ました。予想外の時間の経過に、地図にあった「ここではないだろう」とした最上流の神社が諏訪社である可能性があります。それを確かめるために、帰りの時間を記録しました。
 親指の下にマメができかかっているのを感じながら、ひたすら歩きました。車に「たどり」着いたのは50分後でした。その間にすれ違ったのは、車が一台だけでした。

 芝平誌刊行委員会『芝平誌』があります。数年前に図書館で一度手にしましたが、巻頭にある「川沿いに点在する集落のカラー写真」を見ただけでした。その時は、どこにあるとも知れない「芝平」でした。それを今、再び手にしているのが不思議です。

一、諏訪社「勧請」文治の頃(1185)から、芝平は、諏方大明神の神領であった。その関係から、元久元年(1204)甲子九月十五日、村人によって、諏方大明神(諏訪神社)の祭神、建御名方命を勧請して現在の諏訪社の場所へ、州羽社として祀られたのである。現在から凡そ七百八十年前のことである。(略)
 元禄の大検地の際、この神社だけは、検地が除外され、免税地として特別の待遇を受けた来たのであった。

 高遠町誌刊行会『高遠町誌』から〔芝平諏訪社〕です。

村社・諏訪社
祭神として、建御名方命・大山祇命・七夕機姫命。氏子55。明治42年11月4日無各社5社を併合した。宝物「棟札」幅一尺五寸長さ三尺「勧請の謂(い)われとその年月日記入」

 これで、諏訪社にあった「祠三棟」の祭神がわかりました。また、諏訪の名だたる古社でも成立(勧請)年不詳が多い中で、芝平諏訪社の勧請年がハッキリしている理由もわかりました。棟札に「文治や元久」の年号が書かれていたのでしょう。