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大篠津諏訪神社 鳥取県米子市大篠津 20.5.18

 地図に表示した「大篠津(おおしのづ)」を見ると、地形が複雑なので島根なのか鳥取なのかピンときません。どちらの県であっても直接の損得はありませんが、かつて、「美保関隕石」を見ての帰りに大篠津の諏訪神社をかすめて通っていたことがわかりました。当時は「諏訪神社を訪ねる」旅など全く意識の外でしたから、再び国道431号の世話になるとは思ってもいませんでした。

大篠津諏訪神社

 日本海に面した雲津諏訪神社から、「境水道大橋」で、最近まで川と思い込んでいた県境の水道(海)を渡りました。この橋の構造というか通過方法に当時の記憶が思い起こされる中で、カーナビの指示通りに神社の前に着きました。

大篠津諏訪神社

 「海に近いから」というのは理由になりませんが、同じ平地でも明るく開け、玉垣・鳥居・拝殿が整然と見通せます。神社前の由緒書を読んで、現在地へ移転してまだ歴史が浅いことが、その理由の一つと納得しました。
 一通り写真を撮り終えて拝殿前に戻ると、近所の女性でしょうか、拝殿内へ上がり込み掃除を始めました。これはチャンス、とお願いして拝殿内を撮影させてもらいました。幾つか質問をする中で、「宮司を呼びましょうか」と言います。丁重に断ったのですが、姿を消してしばらくすると宮司同伴で現れました。気軽に請け負う姿とそのタイミングから、宮司の自宅が境内にあり、両人が宮司夫妻であることがわかりました。今までの諏訪神社は全て宮司が不在(無住)でしたから,この神社の格式の高さがうかがえました。

大篠津諏訪神社「諏訪松」 質問の内容と私が諏訪から来たことを知って、諏訪大社へ参拝したことがあるなどと、話に弾みがつきました。所は変わっても諏訪神社の宮司です。「御柱」や「茅野市」などの言葉も出ました。
 許可を得て「松の写真」をカメラに収めました。しかし、下から煽って撮ったので台形に写っています。強制的に修正したので歪んでいると思いますが、大きな松であることはわかります。以下は、隣に掛かっている額の説明文です。

「諏訪の大松」
 旧社地(字城跡)にあった大松は飛行障害になると旧海軍により中途から伐採され、次いで昭和二十五年、朝鮮動乱の際米軍が根元から切り倒した。
 補償するため来社の防衛施設局の技官が「年輪を六百までは数えたが、これ以上は腐食して無理」とのことであった。
(大篠津郷土史より) 

大篠津諏訪神社「皮の行李」 「皮の行李写真」も同様に修正してあります。幾らか映り込みがありますが上出来でしょう。
 以下は、『氏神・諏訪神社由来書』から〔創建の由来〕と〔神社の移転〕を転載したものです。

 創立年代は不詳であるが、社伝によれば、「武田信玄の家臣井田藤右衛門の一族がこの地方に来て開拓し、天正年間井田家六代久左衛門が郷里の信州諏訪神社のご分霊を勧請し、佐斐神に祠を建て尊崇していた。その後子孫が大篠津、下和田へ移り住み繁栄し、慶安二年(一六四九)大篠津、佐斐神、下和田の中央部にあたる旧社地(字城跡)に社殿を建て、三カ村の大氏神として祀った」とある。
 なお、井田久左衛門がご分霊を納めて信州から背負って帰ったという皮の行李は今も神社に祀られている。
 もとは大篠津近くにあったが、美保基地周辺整備に伴い危険地域となり昭和五十九年五月現在地に移転、新築造営する。旧社地には樹齢六百年を越える松の大木が三本あり、「諏訪の大松」といわれ有名であったが、(後略)

 宮司が計3回も自宅(社務所)の間を往復して、『氏神 諏訪神社 由来書』『創建三百六十年 奉祝記念祭のご案内』『盛大に遷宮祝う(新聞記事のコピー)』、さらに〔諏訪神社守護〕〔諏訪神社 無病息災・交通安全守護〕の御札まで頂いてしまいました。篤く礼を言ったのはもちろんですが、財布を持ち合わせていなかったので、お賽銭を上げることができませんでした。

灯篭 参道左に、火袋は新しいのですが、その他は文政8年(1825)という「諏訪大明神」と彫られた灯籠があります。「諏訪の大松」に写っているものと同一のものでしょう。これと鳥居が、唯一、写真で見ることができる当時を偲ばせる大篠津諏訪神社でした。
 再び「由来書」ですが、「通称は、すわさん・うじがみさん」と書いてあります。通称でないと地元では通じないことがあって、他所では「諏訪神社」を繰り返しても首を傾げるだけで、ようやく「おすわさんのことですか」と返ってきたこともありました。