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立川和四郎富昌・四郎治富保の「向き合う龍」 山梨県 21.4.16

■ “万が一”に備えて、場所が特定できる写真や文は載せていません。ご了承ください。
立川和四郎富昌・四郎治富保の龍
立川和四郎富昌・四郎治富保「拝殿左側の龍」
立川和四郎富昌・四郎治富保
立川和四郎富昌・四郎治富保「拝殿右側の龍」

 諏訪神社の拝殿に、一対の龍の彫刻が掛かっています。その下にある小さな木札には、「立川和四郎富昌・四郎治富保」と書いてありました。自治体発行の「誌」を読むと、拝殿・本殿の記述はありますが彫刻については触れていません。「作者名はわかっているが特別扱いはしない」のか「作者名がわからないので特別扱いはしていない」のどちらかでしょう。

彫刻の作者と奉納者

立川和四郎富昌・四郎治富保兄弟 左は、上の説明にある「木札」です。彫刻の下に、そっと添えたかのように打ち付けてありました。「奉納年が書いてあるかもしれない」とメモ代わりに撮った写真ですが、自宅で拡大すると「信州上諏方 大工 立川和四良富昌・立川四良治富保」と彫ってありました。彫刻には疎い(あまり興味がない)のですが、それでも「立川流」は知っています。
 「木札にある立川和四富昌」で検索すると、…空振りに終わりました。「これだけ有名なのになぜ」と見比べると、「良」と「郎」の違いでした。改めて「立川和四富昌」で再検索すると、立川流の二代目が際限なく表示しました。コピー商品を作るときに、「一文字」だけ変えて騙す手はよくあります。それから言うと、この作者は「立川和四郎富昌」を騙(かた)った偽者なのでしょうか。

願主 木札は右側の龍の下にもあります。拡大すると、「願主」として6人の名が書いてあります。軒下に名前だけが残る二百年前の見ず知らずの名前を読んでみても、どのような関係なのか・何を願掛けしたのかはわかりません。「文化十四年」ですから、立川和四郎富昌・富保に依頼した龍の彫刻がようやく完成して、1814年に奉納した事実だけが読み取れるだけです。
 この中に「市兵衛」があるので、和四良も、この頃の「書き方」では「郎」を「良」にするのが一般的だったのかもしれません。

龍の目玉

 この諏訪神社の龍は、透かし彫りの技法なのか、目の部分などが透けて下地が見えています。ところが、左側の龍の目玉を拡大すると「衝撃の事実が…」(と某テレビ番組に影響されて大げさに…)。
 タイトルの趣旨に沿った都合の良い資料と先生だけを紹介して、青龍と白虎がゲストに判定を迫るという番組があります。あれは、ゲストが「信じるのか、信じないのか」より、「(信じると言って)番組を盛り上げるか、否か」の選択を迫られる番組、という話はここまでにして「話の目玉」に戻ります。

立川和四郎富昌・四郎治富保の彫刻

 左側の目に何か入っています。この時代ではガラスは考えにくいので、不透明の水晶と思われます。山梨県は水晶の産地と加工で有名ですから、立川和四郎富昌が地の利で取り寄せたことは考えられます。右側の目からはテープ状のものが下がっていますが、それは別としてさらに拡大すると、穴の中には、ずれていますが同じような石が見えます。
 私は、“状況証拠”から「表側から目を外そうとして突っついたら下にずれてしまった。目を固定していた銅板を引っ張り出してはみたが、何らかの理由で続行を断念した」と推理してみました。早い話が「窃盗未遂」です。
 「テープ状のもの」は、緑青色から銅板と見ました。それがカールしていることから、さらに推理が“弾み”ました。「蚊取線香のように切り込み、その弾性で、神楽を舞うときの震動で目が動くようにした」というのは考え過ぎでしょうか。「神様にはそんな遊び心は失礼に当たる」と落ち着いた(否定した)ところで別の場所に視点を移すと、左下の雲と思われる箇所には黒曜石のような石もはめ込まれていました。

立川和四郎富昌・四郎治富保の彫刻「白龍」

 上は、右側の龍です。こちらは光の反射がまったくないので、拡大しても地が見えるだけです。

龍の目玉と龍の髭について

 平成22年9月3日、このページを読んだ方からメールを頂きました。「ココ」の部分に何か書き忘れがあるようですが、原文のママ転載しました。

 例の青龍・白龍の彫刻ですが構図・作風が和四郎富昌より時代が古い彫物と想われます。また、彩色の跡が観られ和四郎富昌ココでは素木の彫刻であったハズです。この時代は玉眼に水晶玉を入れることや銅板で目を入れることもあります(安永〜宝暦)。またコイル状の細い板は龍の髭になります。
 ということであの墨書はニセモノです。

 メールでは「立川和四郎富昌・四郎治富保の作ではない」としています。しかし、二百年前の寄進者や現在の氏子の“心情”もあるので、真贋はともかく「参考」と言う形で紹介し、その後に気がついたことも含めて以下のように書き改めてみました。

 細い銅板が龍のヒゲとは知りませんでした。その生え際(取り付け部)を確認しようと写真を拡大したら、確かに髭が外れた跡のような穴がありました。その時に気がついたのですが、「無い」としたはずの目玉を発見しました。透明に近い玉なので、地が透けて見えたのが原因でした。裏に描いた瞳の「◎」も確認できました。
 さらに、緑の彩色が所々に残っており、左の青龍と同じ仕様とわかりました。白い龍に見えたのは、…下地の「白」が原因でした。私としては「青龍・白龍」のほうがアピール性があっていいのですが、「昇竜・降龍」のような「しゃれた銘」が思いつかないので「向き合う龍」と改題しました。
 その後、一対の竜は、扉の左右にある「小脇板」にはめ込まれた「昇竜・降竜」ではないかと思うようになりました。しかし、立体化を図ったヒゲが扉の開閉に邪魔になると気づき、“元の拝殿”に戻しました。因みに、本殿の前部は密閉されていて確認できません。

 平成24年6月28日になって、別の方からメールを頂きました。本文だけを原文のママで掲載しましたが、平成22年に頂いたメールの「 」内についてのコメントという形式になっています。

 「構図・作風が和四郎富昌より時代が古い」 作風や構図が冨昌より古いとする根拠はありません。冨昌の作風で間違いないと思います。下絵次第で作風なんていくらでも変わりますし、その下絵さえあれば冨保でも十分同じものが彫れます。また請負金額により彫の浅い深いも大分変わってきますし、当初から彩色を施すことが解っていれば、彩色をしやすく彫るのが一流の彫刻師でもあります。まして構図が古いと断言できる理由が全く不明です。逆に初代冨棟の作風ではないことは断言できますから、文化14年頃の作で間違いはないでしょう。
 「彩色の跡が観られ和四郎富昌ココでは素木の彫刻であったハズ」 立川和四郎の作品がすべて素木であったわけではありません。豊川稲荷奥の院や静岡浅間神社、秋葉神社神門(剥離がひどく素木にみえますが)、長野県の某お寺の欄間には、彩色された立川の彫刻があります。ですので彩色があったからといって立川流ではない、、、という断言はできません。ココでは、、、というなぜココなのか、という理由はわかりませんが。
 「銅板で目を入れることもあります(安永〜宝暦)」 まず安永〜宝暦ではなく宝暦〜安永の間違いですね。立川流で水晶を眼としたものはほとんどありませんが、愛知県の内々神社では文化年間の建造で銅眼を入れています。ということは宝暦(1751〜1764)〜安永(1772〜1781)だけではなく、文化元年(1804)以降も銅の眼を入れることはありました。
 以上のことから「墨書はニセモノ」という理由は根拠がありませんのでお知らせいたします。
 尚、青龍・白龍とありますが、両方とも胴体は青の顔料で塗られていたものと思われます。白龍の方も所々青の彩色が残っています。彩色は岩などを砕いて粒子状にし、膠に混ぜて塗りますので、経年のうちに必ず剥離します。粒子を水に溶いても溶けませんから、接着剤がわりに膠を用います。白色は彩色技法の一種で胡粉と黄土などを膠やフノリで混ぜて下地に用たものです。通常その白の下地の上から彩色を施すのが彩色の技法だと思います。

 私の拙文に対して、「立川流」について一家言を持つ方からそれぞれの反応があって嬉しくなりました。メールという媒体で十分な表現をすることは難しいと思いますが、私には大変参考になりました。改めて両人に感謝します。私は相変わらずの彫刻音痴なので、メールを紹介するのみとしました。