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鳥屋神社 島根県出雲市斐川町 19.5.4

鳥屋社と建御名方命

 「斐川町」が設置した柱状の公式案内板「田園空間博物館」があります。その一つの「神代(かむしろ)神社」にはめ込まれた地図に、「鳥屋社と建御名方命」を見つけました。斐川町の左上(北西)端で、川向こうは出雲市(当時)という場所です。出雲の神社では、“表だって”諏訪大社の祭神「建御名方命」の名が出ないので、これは是非、と今日のコースにトリとして加えました。

鳥屋神社

 行楽帰りの渋滞に巻き込まれるなど紆余曲折がありましたが、田圃の中にポツンとある鳥屋神社を見つけました。ところが、駐車場がなく、碁盤目を境する農道も狭くて駐められません。すでに太陽は傾き夕日の形相です。「日が長くなったなー」という実感はそれとして、すでに5時を回っている状況の中では焦るばかりです。
 一周りして「同一幅の規格道路」と知り、路上駐車と覚悟を決めました。左端へ寄せてはみたものの、軽トラでもすれ違いができない状況にその覚悟も揺れます。

鳥屋神社
「鳥屋神社」背後の帯が斐伊川の堤防

 対向してきたバイクが停まりました。駐車する場所がないことと、地元の人に受け入れやすい「参拝」を言い訳紛(まが)いに口にすると、何と、「私は鳥屋社の宮司だ」と言います。初めて鳥屋神社を目にしたときに、境内にバイクと人の姿が見え隠れしていたのを知っていましたから、その男性だと直感しました。願ったり叶ったりですが、彼は、目前の難題「駐車場」には一言も触れずに先導します。「もう、宮司に責任とってもらう」と、路上駐車ならぬ通行止めにしました。

鳥屋神社拝殿 拝殿の戸を開けてから、参拝者(私)を迎える準備をしています。時間外勤務とも言えるその“好意”に報いようと、まずは本殿前に正座し「二礼二拍手一礼」をしました。一瞬、出雲大社の「四拍手」が頭をよぎりましたが、神紋「梶」がある“実質的な諏訪社”です。二拍手に止めました。「財布を忘れたので賽銭は後ほど」と断り、拝殿入口に控えた宮司の横に座りました。
 鳥屋を「とや」と読む諏訪系神社の宮司と、サイト『諏訪大社と諏訪神社』を運営する私です。互角の勝負と“本格的”な会話を始めました。ところが、独特の口調に方言が混ざりよく理解できません。耳もやや遠いようです。言葉を選びながら、また相手の言わんとしていることに推察を加えての会話となりました。実は宮司らしからぬ姿に疑問を感じていたのですが、農作業帰りとのことで(かなり)汚れた服装にも納得しました。
 話が一段落したので境内の案内をお願いしました。長野県の、そのまたこの神社縁の諏訪から来たことが嬉しかったようです。各祠の前で丁寧に解説してくれます。この時は、日中の暑さに、Tシャツと言っても下着ですがその姿で通していました。方角がよく分からないのですが、斐伊川の堤防から間断なく吹き寄せてくる風が強く寒さを感じていました。出雲地方の農家に見られる(後で知った)「築地松」は訪れる人には嬉しいのですが、ここでは切実な風対策のようです。しかし、神社の防風林はなぜか疎らで、そろそろ暇乞いか、を感じさせます。

鳥屋神社床柱
私には大社造りに見える本殿

 「本殿は大社造ではないが、出雲大社と同じ心の柱がある。ただし、上までは繋がっていない。本殿内は、ここでは緞帳(どんちょう)で仕切られているが、出雲大社と同じ向きになっている」と聞き取りました。
 「田の字の右下を下側から入って、時計回りに右上の仕切りに向かって祭神に対面する」ことを前知識で知っていましたから、聞き返すことなく理解できました。上写真では、本殿の左側面が正面に当たります。出雲大社に参拝した方は、拝殿を通した本殿正面とは別に、本殿の左側面に対面する瑞垣の前に簡単な拝所があるのを覚えているでしょうか。

鳥屋神社と諏訪大社(建御名方命)

 「この祭神は大和(現・奈良)にお尻を向けている」との話ですが、その特殊な造りを隠すために本殿には窓がないのでしょうか。ここでふと思いました。諏訪大社がなぜ、ただの里山としか見えない宮山を神体としたのか。頭の中で日本地図を広げ、守屋山と諏訪大社を置きました。正確ではありませんが、大和の方向にお尻を向けようとしている意思を強く感じます。
 境内に、「出雲の國 國譲り決戦地(発祥地)」とある、ヒョッとしたらこの宮司が設置したのではと思われる私設案内板があります。戦いに敗れた地の鳥屋~社(とやのかみやしろ)と、逃亡先で興した諏訪大社がお尻で憎き敵をサンドイッチにしている構図は、やはり強奪された恨みを(その子孫が)現在まで伝えているいることの表れなのでしょうか。
 再び拝殿前に戻り、何故「建御名方命」なのかという「田園空間博物館」案内板の前に立ちました。鳥屋神社の前に白鳥が乱舞している、まさに神話に相応しい写真付きです。

鳥屋社と建御名方命
 古事記、国譲りの条に「国譲りに最後まで反抗された、出雲国唯一剛勇の神 建御名方命は、高天原からの国譲り交渉の使者 建御雷命に対して、千引きの岩を両手で捧げ“我が国に来てわけも無いのに国を譲れとはけしからん”と、その岩を投げつけられた。しかし、建御雷命は巧みにそれを避けて反撃。二神の争いはしばらく続いたが、建御名方命の力及ばず信濃の国の諏訪まで逃げられ、ついに降参され国譲りを認められた」とある。
 投げられた千引きの岩は内海に立ち、そこへ多くの鵠(白鳥)が群がった。里人達はその風景がまさに鳥小屋のように見えたので、この地が鳥屋という地名になった。そしてその岩の上に建御名方命ご鎮座の鳥屋社が造営されている。
鳥屋神社の立穀
出雲で久々に見た梶紋「立穀の葉」

 宮司のほぼ案内板通りの話に、改めて「千引きの岩が」と振り返ってみました。当然ながら石組と床柱のみでしたが、素直に地中深くに埋まっている、としました。
 「耕地整理で境内がかなり狭くなった」との話に、「駐車場がないのは、出雲での建御名方命の評価の低さ」と諏訪側の眼で決めつけてみました。氏子は「戦前は60軒あったが今は50軒に減った」そうですが、これは神社離れではなく少子化など現在の流れでしょう。

父と子

 (私の駐車が原因の)「ピッピッ」というバックする電子音には気が付いていました。“当核車”が見えないので気にしませんでしたが、その発生源の持ち主である親子が境内に入ってきました。そろそろ私の持ち駒のネタ切れか、というタイミングでしたから、宮司の話の矛先を彼らに向けてもらいました。その間に一通りの撮影を済ませ、再びその輪の外に立ちました。

 退職してから「出雲の周辺を調べている」ことだけあって、宮司を前にした環境に延々とその饒舌が続きます。運転主役の息子ですが、「諏訪社の神紋」話の中で、父の口から「息子の方が詳しい」と紹介がありました。すでに5時半を回っている状況に、早く帰りたそうな顔を見て取りました。しかし、父の水を得たような“口”に諦め顔です。父の記憶が全くない私は、しだいにその親子が醸し出す情景から離れたくなりました。
 腰掛けた拝殿に根を生やしてしまった「父」と、「そろそろ」と言い出せない立場の宮司に暇を請いました。共に会話に加わった縁もあり、居場所がないのか境内の隅を散策していた息子に「これも親孝行」と話しかけてしまいました。車中で一人きりになると、お節介だったかな、と反省の念が浮かびました。「父と息子」という親子を見ると、変に意識してしまう私でした。