橋の手前で堤防に沿って上流に目を向けると、幟枠が見えました。山口諏方神社に間違いありません。現れた石段を登ると鳥居があり、その向こうに諏訪神社の拝殿が正面を見せていました。左側が川なので、明るく開放的な境内です。松の枯葉が、春爛漫の日の下で強く匂っていました。
「北杜市指定文化財・鰐口がある諏訪神社」として来ましたから、案内板にある「明治初年の建築であるが、回舞台の溝があり、かつて村芝居が盛んに行われたころの名残をとどめ、全県的にも数少ないものである」に驚きました。
舞台に上がると、確かに溝がありました。しかし、ターンテーブルの上にはアルミサッシの扉があり、その機能は封印されていました。
拝殿兼舞台という造りなので、大きく張り出した屋根下の壁には、様々な奉納額が懸かっていました。一番目を惹くのが武田信玄と思われる絵ですが、奉納年が書いてない(または剥落した)ので、私には興味外となりました。
「百疋・二百疋」の文字が連なる文政四年の寄進額があります(下写真奥)。「1疋(ひき・ぴき)は10文」と知っていましたから、100疋で1000文になります。これを「1貫」と言うそうで、時代劇でよく「銭○貫文」と出ますから聞いた方も多いと思います。ただし、貨幣価値がわからないので、どれほどの大金なのか想像もつきません。
三連の「永代太々御神楽」寄進額もあります。「一金拾両」本願人・願主3人の連名から、「一同壱分」で終わり、末尾には文化七年(1810)と書かれています。
また、「諏方大明神御神楽御祈祷社頭康栄(までは読める)・文政十年」の細長い木札もあります。「村芝居以前の時代」には、大掛かりな神楽が何回も奉納されたことが想像できます。傷みも少なく文字もよく残っているのは、「長く張り出した舞台の屋根」という構造上のためでしょう。
拝殿の戸がスリガラスなので、中は全く見えません。背後に回ると、本殿の後ろ2/3が見えました。しかし、なぜ本殿が拝殿にめり込んだようにも見える囲い方をしたのかわかりません。
「珍しい拝殿+舞台」とあるので、明治初年に建て替えた時に、江戸期からの神楽殿という形を世襲したのでしょうか。案内板にはありませんが、元々拝殿は無く、舞台(神楽殿)の後ろに本殿という社殿配置だった可能性もあります。改築前の社殿を見ずしての推理ですが、元々壁のない建物を現在見る形で囲ったために、本殿前部の複雑な造りを覆うには継ぎ貼りする方法しかなかった」としました。
その本殿は、旧白州町指定文化財で「一間社流造で、様式手法の上から江戸初期の建造と推定される。屋根は桧皮ぶき、建物全体に朱色が施されている」とあります。
本殿横の舞台の基礎部に目をやると、空洞があります。この角度では懐中電灯があっても奥は見えませんから、これが、私が見た唯一の回り舞台の遺構でした。
本殿裏に、まだお辞儀をしているワラビがたくさん出ています。諏訪より半月早い季節の贈り物に、もう晩酌の肴がハッキリ見えました。諏訪神社からの“贈り物”にホクホクしながら下ると、神社下の家の前で、丁度バッタリというタイミングで、バイクに乗ったおばあさんが帰ってきました。私が除ける形で背にしましたが、振り返るとまだ玄関先にいます。これを「何かの縁」として、話を聞くことにしました。
「クワを忘れて戻って来た」ということですが、「急ぎでもないから」と立ち話に付き合ってくれました。「生まれは道向こうで、ここに嫁に来た」と言いますから、私には“大当たり”となりました。私の質問は場当たりで順不同、しかも聞き違い記憶違いもありますが、以下のようにまとめてみました。
「例祭には子供相撲があり、おじいさん(夫)が子供たちに文房具を与えた。子供の頃は舞台の中に入って遊んだ。手で押して回るようになっていた。(私が見たナス状の石塔と思われる)「むとうさん」というお坊さんのお墓があって、腹を病むとお参りし直るとお酒を持ってお礼参りをした。神社から(備品を)いろいろ盗まれたので、最近になって囲った。盗まれてから直してもしょうがないのに。10月8日の例祭も昔は賑やかだったが、今は子供がいないので特別のことはしない。男衆が8人くらい集まって掃除をしてお参りするだけだ。(博物館所蔵と思っていた)「鰐口」は総代が持ち回りで保管している。隣に神社に詳しい人がいる」
白州町誌編纂委員会『白州町誌』の各章から〔山口諏訪神社〕を転載しました。
「祀趾の直前」から、本殿の真後ろに石祠が二棟並んでいるのを思い出しました。
新たにその写真を挿入してみましたが、どちらが「祀趾」に当たる旧本殿なのかはわかりません。
山口諏訪神社拝殿の壁にあった木札です。かすれた文字を判読しましたが、ここまでしかわからずメモのままでした。
後日、『白州町誌』にある「下教来石諏訪神社の由緒」に神主・石田備前の名を見つけました。続いて県宝の「棟札」を読むと、どこかで見たような文面です。
内容は「神楽」と「遷宮」の違いですが、意味はわからずとも共通部分が多くあります。15年の開きと名前が「義」で始まることから、二人は親子で、石田美濃の父が石田備前ということでしょうか。
やはり、県宝の棟札は「県宝・本殿の棟札」ということで価値があり、「神楽」では価値がグッと下がるのでしょう。
「例祭時に本殿の写真を撮る」と計画してから、早6年も経ってしまいました。「今年は10月20日」としっかり頭にたたき込んでいたので、神事は11時からと予想して駆けつけました。しかし、すでに片付けの最中でした。それでも、短い時間でしたが本殿の写真を撮ることができました。