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三之蔵 諏訪神社 山梨県韮崎市穂坂町 22.10.28

 韮崎(にらさき)市は知っていても「穂坂町」がどこにあるのかわかりません。その穂坂の「三之蔵」とくればなおさらです。幸いにして「ネットで検索」という手がありますから、自宅のパソコン画面で労なく表示させることができました。実は、ネットで知った穂坂町「三ッ沢」の神明神社「お腰掛」に興味を強く惹かれていました。写真だけでは我慢できず自分の目で確認しようと計画を立てましたが、いつもの(ついでの)諏訪神社巡りを加えるために『山梨県神社庁』のサイトを開きました。そのリストにあったのが、同じ穂坂町の三之蔵という地名でした。
 「穂坂牧」があったという由緒ある地ですが、諏訪に住む私の知識の範疇(はんちゅう)からは外れています。「諏訪神社」という名前の繋がりだけですが、古くからの道「穂坂路」にある三之蔵を訪れました。

三之蔵諏訪神社

 小さな集落の中では、道を歩くだけにも気をつかいます。不審者と思われないように、キョロキョロせずにやや早目に歩くようにしています。“幸いにして”、諏訪神社は人家から外れた場所にありました。鳥居から、左に神楽殿・正面が拝殿とその向こうに本殿が見通せます。

三之蔵諏訪神社 拝礼の後で拝殿の横に廻ると、白壁ということもあって部材に赤と青の彩色が残っているのがよくわかります。その壁も漆喰が剥がれて土壁が、さらにそれが崩れて心材の竹やワラが見えています。氏子の方には失礼な表現ですが、その朽ちかけた社殿が何とも言えない時代の経過を語っていて気に入りました。
 本殿は、扉の左右に昇竜降竜の彫刻がある立派な造りですが、山を背後にした日陰とあって、つい痛んだ箇所に目が移ってしまいます。

三ッ沢神明神社

 本殿の右にある社殿ですが、三ッ沢神明神社の「お腰掛」を見た後なので、嫌でも床下にある「石棒」が気になります。メジャーがないので確定できませんが、礎石の間隔が「お腰掛の寸法・一辺四尺(1.2m)」に見えてしまいます。お腰掛は穂坂町の神社だけにある奇妙な木枠で、強いて言えば「諏訪の御柱に貫を付けた物」となるでしょうか。この中に「石棒」ですから、社(やしろ)が造られる以前のミシャグジ社を彷彿させます。
 「御柱」は、「社が造られるようになっても、その周りに、結界であった柱を立て続けた」とも考えられます。それが、この地では「柱を繋げる貫を加えた形」として残ったのでしょうか。日本広しといえどもこの類例はありません。御柱は諏訪湖周ですが、お腰掛はそれに比べればピンポイントとも言える穂坂町限定です。御柱とお腰掛の関連はなくとも、二つの「柱立て」が限定された地域にのみに残っているのが不思議です。

三之蔵諏訪神社拝殿 拝殿内部の壁にも朱色が残っていました。その壁に木札が何枚か貼られています。「願文」の左右に書いてあるはずの年号は、文字の痕跡は残っていますが読み取れません。右の二枚は「正一位諏方大明神 正遷宮御祈祷…」とありますが、この神社の遷宮なのか現諏訪大社の遷宮をここでも祈ったのかはわかりません。左端の札は「国威発揚・諏訪神社皇軍戰捷(せんしょう)兵士健康祈願…・敵國降伏」とある願文なので、戦中のものとわかりました。

 現在では、「勝った」日露戦争では、戦利品として奉納した砲弾がよく見られますが、太平洋戦争に関わる物は完全に撤去したようでまったく見ることはありません。ところが、茅ヶ岳に近い山裾の諏訪神社には残っていました。この村からも「兵士として」出征した人がいたのでしょう。私にとっては「物見遊山」の諏訪神社参拝でしたが、時々このような物を「見つけて」は落ち込んでしまうことがあります。大概は対象物から目を離すと忘れてしまいますが…。

三之蔵諏訪神社神楽殿 山梨では常識とも言える「神楽殿」が、ここ諏訪神社にもありました。現在はトタン葺きですが、屋根裏を見て、釘やカスガイの類が使っていない構造物であることに気が付きました。クサビは、現在でも緩みがあれば打ち込んでいるのでしょうか。

三之蔵諏訪神社「神紋」 神楽殿の屋根には「立穀(梶の一枚葉)」の神紋が見られました。諏訪神社として来た私には、本殿が大棟・鬼板共に「五三の桐」でしたから、半分だけ納得できました。紋が同じ作りなのは、同時期に屋根の葺き替えがあったためでしょう。因みに拝殿は瓦葺きです。山梨では祭神に関係なく「武田菱」が幅を利かせていますから、その中では祭神と神紋の関連を問うことはできません。「武田家の影響」に倣えば、この土地の有力者の家紋が「桐」であったことは考えられます。

 祭神については、甲斐国志刊行会編『甲斐国志』では「諏方明神三ノ蔵村」。韮崎市誌編集委員会『韮崎市誌』では「諏訪神社(旧村社)・祭神建御名方命」としか書いてありませんが、以下の文が続いていました。

『甲斐国社記寺記』によると鎮座不詳。「伝云う」として、後一条天皇御宇寛仁三(1019)年に神異がしばしばあったのでその旨を国守に言上したところ、夷賊入寇(にゅうこう)の神告があり早急に宮祠を建立して祭祀を行うよう仰せがあって金穀などを下さったので建立して産神とした、とある。

 再び「お腰掛」です。『甲斐国志』に「側に御嶽権現を祀る」とありました。長野県では「木曽御岳」ですが、ここでは金峰山の「御嶽信仰」でしょう。これが、前述の「本殿の右にあった社殿」でした。この本殿は江戸時代からあったことが証明されましたが、さりとて、明治の神社合併で近隣のお腰掛から御神体の石棒がその床下へ安置されたとは思えません。
 「初めはこの場所にお腰掛があった。その後に御嶽権現を勧請したが、“合理化”ということで『本殿の柱をお腰掛の柱にする』という合祀の形態を作った」という流れを考えてみました。それというのも、「穂坂郷」の神社にはすべてお腰掛があったと考えたからです。宮久保村・柳平村・三ッ沢村三村の穂坂総社「倭文神社(降宮神社)」にはお腰掛はありませんが、『甲斐国志』には以下のように書いてあります。

〔降宮明神〕祠後の松樹大五圍(抱え)なるべし、中間より数幹に分かる、御腰掛木と称す

 本殿の後ろに「御腰掛木」があるということから、「かつての本殿」とまでは言いませんが、お腰掛があったのは間違いありません。隣県の人間という立場を利用し、あれこれ勝手な推理をしてみました。