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小瀬スポーツ公園を護る諏訪神社 山梨県甲府市 21.9.24

「天津司の舞」

 5月の「諏訪神社例祭」を調べる中で、山梨県甲府市の「天津司神社」で、国指定・重要無形民俗文化財「天津司の舞」があることを知りました。残念ながらすでに終わっていましたが、「来年は是非」と天津司神社の場所を検索しました。

小瀬スポーツ公園

 天津司神社は、敷地面積が46ha もある(という)「小瀬スポーツ公園」の一画にあり、神幸する「鈴宮神社」も公園の一部でした。公園には、“多目的”に利用できる広い駐車場がありますから、私には、まさに両神社の「お祭り見物」のために造られたような大型施設に思えました。

小瀬スポーツ公園の周辺にある諏訪神社

 山梨県まで行くのですから、ついでに「近くの諏訪神社も」と欲張りました。地図をスクロールすると、何と、小瀬スポーツ公園の周囲に3社も見つかりました。地図のスケールから、半径2キロ以内に全ての諏訪神社が余裕を持って収まります。これは「何かありそう」です。すぐに思い付いたのは、「小瀬スポーツ公園は、諏訪神社が守護神となるトライアングルの中に造られた」というものです。
 しかし、(多分)それはないでしょう。かつての旧村にあった「産土社」がたまたま「諏訪神社」だったということですから、現在の地図で「町の境界」を調べてみました。町名から、小瀬村の他に天津司村・上村・西油川村・下今井村の各村があったとしました。

諏訪神社巡拝

 「シルバーウィーク=渋滞」ということで、期間中は自宅で“待機”していました。その反動で、(春まで待てずに)「諏訪神社五社巡り」を思い立ちました。

鈴宮神社(下鍛治町)

〔鈴ノ宮明神〕雀ノ宮とも云。下鍛冶屋村に鎮座す。落合・西油川村三村の土神なり。昔は、諏方明神別殿なりし由何の頃よりか相殿造りとせり。庭前の東方に船石と云あり。長六尺幅二尺八寸ばかり。形名の如し。
甲斐叢書刊行会編『甲斐国志』

 武道館の駐車場からは、(地図では)道向こうです。オールコンクリートですが“五割川”という水路に沿う小道を入ると、「鈴宮大明神・諏訪大明神」と並記した鳥居額が見えました。

鈴宮神社 鈴宮神社の境内に入ると、伸びてから除草剤をまいたので見苦しく枯れた草が気になります。
 右手に、生け垣に囲われた何かがあります。のぞくと、内部は舗装してあることがわかっただけで、案内板もないので「何でしょう」で終わりました(後に、ここで「御船囲」と呼ばれる舞台が作られることを知りました)。『国志』にある「お舟石」もありました。
 注連縄と賽銭箱と鈴緒があれば鈴宮神社の拝殿ですが…、下りたシャッターに向かって拝礼をするのは何ともおかしな気分です。この時に、シャッターの手前に置かれた大きな空コンテナに気が付きました。これが「始まり」で、拝殿らしからぬ建物の周囲には、コンテナの中になぜかスリッパ一足・一升瓶のケース・使い放しの水道ホース・流しの中には雨水で藻が生えた箱が放置され、お菓子の袋などが散乱しています。壁際には、何と、応接セットに使うような大座布団に普通の座布団が重ねたまま(廃棄されて)置かれています。

 拝殿の右半分に扉があり看板が二枚掛かっています。消えかかった字を推測して判読すると「下鍛冶屋町公民館」と「老人憩いの家」で、拝殿兼公民館とわかりました。本来は地区の中核となる施設ですが、周囲の状況から見ると現在は使われていないようです。何か事情がありそうですが、それを割り引いても、「もう鈴は錆び付いている」としか思えない神社でした。

下鍛治町鈴宮神社 鈴宮神社本殿の背後は「山城温泉」でした。そのため、その施設と汲上・貯湯タンク及びそれが発する音がこの神社の“特徴”となっていました。
 赤く塗られた本殿は、前後がアングルで補強されていました。これは温泉の汲み上げで地盤沈下、ではなく耐震補強でしょう。
 下鍛冶屋町の境界を調べたときに、その“中枢部”が小瀬スポーツ公園で占められていることに気が付いていました。立ち退きで町民・氏子が激減したのでしょう。公民館はあっても使われず、もしかしたら、住所の境界はあっても「下鍛冶屋町の自治区」そのものが無いのかも知れません。

天津司神社(小瀬町)

 日射しを避けて、彼岸花が咲いている公園内の小道を選びました。蛇行しているので距離は伸びますが、汗をかくよりはいいか、としました。

天津司神社 公園の一画でもその端とあって、天津司神社は道路と民家に囲まれた小さな神社でした。左端の道路に覆い被さったような木は「甲府市の保存木指定」で、「枯れ木の落下に注意」とありました。かつては社叢を構成していた大木の一つですが、それでも、社前の神木と共に境内に大きく日陰を作っています。

天津司神社扉 社殿配置では本殿ですが、厚い鉄板の扉からは「耐火金庫造り」とも言えそうな造りです。扉には、「九曜紋」が大きくあしらわれていました。
 境内には「天津司舞」の案内板はありますが、天津司神社の縁起はありません。そのため、確定はできませんが、「本殿は人形の収蔵庫で、その人形を祭神としている」としました。

小瀬町天津司神社 天津司神社本殿の全景です。本殿の大棟に、拝殿と同じ神紋「九曜紋」が見えます。「黒丸の周りに小さな黒丸が9個並んでいる」と言えばわかるでしょうか。この「9」は、人形9体を象徴しているそうです。
 拝殿の壁に「天津司神社神庫建設寄附者名」があるのに気が付きました。「2002年11月」から、本殿ではなく、人形を保管する「神庫」と確信しました。何しろ「国指定の重要無形民俗文化財」です。

小瀬町天津司神社 本殿の左に廻ると境内社がありました。その横に上が欠けた石碑があるので読んでみました。何と「鈴宮大明神・諏訪大明神」です。ここは天津司神社で、先ほど参拝したのが「鈴宮・諏訪神社」ですから「なぜここに」です。
 裏から観察すると、後部の出っ張った形から、額束と一体化した鳥居額とわかりました。鈴宮・諏訪神社の鳥居が新しかったので、「鳥居を更新した際にここに安置した」という流れは想像できますが…。「なぜ天津司神社に運んだのか」釈然としないまま「次の諏訪神社」に向かいました。

玉田寺と諏訪神社

 自宅に戻ってからネットで調べると、「玉田寺の寺域にあった諏訪神社は、領主の居城建築のあおりを受けて、鈴宮神社の境内に移転させられた」とわかりました。

玉田寺跡 さらに「玉田寺」で検索すると、「玉田寺は一蓮寺に移った」とあり、玉田寺跡に立っている石仏の写真を紹介していました。実は、天津司神社から上町の諏訪神社へ向かうときに、五割川の対岸に「石仏と石塔」を見ていました。橋がないので「ただの野仏」として通り過ぎましたが、それが玉田寺跡でした。
 ここでは書きませんが、諏訪神社の変遷が「天津司の御幸」という形を作り上げたことがわかりました。

天津司神社は神庫

〔天津司〕社記曰、其勧興を知らず、昔は諏訪明神の神前に飾置しが下鍛冶屋へ遷座の時より神主宅中に神庫を建て之を安置す。
甲斐叢書刊行会編『甲斐国志』

 長文になったので、「上町・下油川・下今井諏訪神社」は別ページとしました。


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