日射しの強さに、地図を頭の上に掲げながら天津司神社から次の諏訪神社へ向かいました。
甲斐叢書刊行会編『甲斐国志』に、「神領・社地・神主名」のみが載っています。ここでは必要ないので省いたら「6文字」になってしまいました。
これから、旧「上村」が、現在の字「上町」になったことがわかります。
右は「老人憩いの家」で、左はゴミ収集ステーションでした。初めは、ゴミ袋を避けて斜めの位置に立ちました。しかし、前景に“世相”が入るのも面白いのではないか、と「ゴミ袋−鳥居−拝殿ライン」を選びました。
アングルを決める中で、鳥居の笠木が異常に短く細いことに気が付きました。貫は新しいので比較の対象外としても、笠木はどう見ても代替品です。近寄って観察すると、台輪と笠木の接合部に「代替品なら必ずあるはずの隙間」が見えません。見た目には、石の風化やコケの乗り具合からも、造られた当時そのままの完全セット品ですから不思議です。
笠木と台輪の“相対性”は完璧ですが、笠木と額束には隙間が見られます(左写真)。改めて笠木を見上げると、分割した左半分の上部に、削り残しのような出っ張りがありました。柱は直近で観察できますから、風化による凹凸から見てかなり古いことがわかります。
氏子ではないので「そんなことはどうでもいい」のですが、つい目を留めてしまいました。
境内の端に沿って桜が植えられていますが、神社に付きものの社叢がないのでグラウンドのように広く開放感があります。右側に並んでいるアパートの住民には格好の運動公園になっているでしょうか。
本殿は「一間社流造」ですが、ブロック塀とフェンス、さらに木々が邪魔をしてよく観察できません。鬼板に「梶紋」が確認できますが、「諏訪梶」なのか「明神梶」なのかまではわかりません。
この諏訪神社も、拝殿は“シャッター造”でした。その前の床に、かつては中身があったカップ酒と塩が置かれていました。溶けた塩が模様を作っていますから、定期的に訪れる“塩害”を防ぐために「塩はここに置け」という表示にペンキを塗ったのでしょう。「そんなこと」と笑われそうですが、この「一ブロックからはみ出た規則性がない」塗り方に、鳥居に続いて、また頭をひねってしまいました。
再び小瀬スポーツ公園の前を通って、東の果てに向かいます。突き当たりを右折すると、旧西油川村の「諏訪神社」でした。背後は、地図では笛吹側の支流「濁川」と「平等川」が並行していますが、堤防しか見えないので果たして川なのだろうかと疑ってしまいます。
境内入口の左は消防団の屯所です。その裏に砂山を見て、砂袋→洪水を連想しました。余りにもサッパリした境内と庭園風に整然と植えられた立木から、この地での神社の歴史は新しいのかもしれません。近くに甲府市の「環境センター」と「リサイクルプラザ」があるのを思い出しました。洪水で社地が流された可能性もありますが、代替地のここに移転したのかもしれません。
区画されたブロック内に玉砂利が敷かれ、舗装された参道が延びています。コンクリートの基壇上で“チェーンの玉垣”で囲われているのは、賽銭箱がなければ収蔵庫とでも見間違う本殿でした。天津司神社の例もありますから、実際に「何か」を収納してあるのかもしれません。『甲斐国志』には「西油川村の諏訪神社」は載っていませんが、赤屋根の本殿大棟と鬼板には「立ち梶の葉」の神紋がありました。
境内の左に、榊の生け垣に囲まれて石祠が7棟並んでいます。祠の中に、色紙で作られた幣帛が納めてありますから、今も“管理者”がいるのでしょう。この時は“よくある境内社”としましたが、その後の調べで、この辺りから集められた「七天神」と知りました。山梨は「天神信仰」が多いそうですが、ここは諏訪神社なのでそれは省きます。
緑塊の下が、「天津司の舞」の伝承に出てくる井戸です。注連縄の紙垂がわずかに残っていました。『甲斐国志』では「(人形の)一体は西油川村の釜池に没す」とありますが、山梨県立図書館編集発行『甲斐国社記・寺記』の「天津司神社」には「一躰ハ此近処西油川と申所の旧井に入て」とあり「鏡の井」の名があります。
その下を覗くと、…コンクリートと土管(鋼管)で固められていました。井戸そのものの水位なのか溜まった雨水なのかわかりませんが、浅い水面には落ち葉が浮いていました。
実は、この井戸は境内の外にあったので、初めて参拝した時は全く気が付きませんでした。ネットで知ってさらに調べて、後日改めて写真を撮りに行ったというのが、この写真と説明です。現在の井戸の姿は、「これが…」と興ざめするものなので遠景としました。
小瀬スポーツ公園内にあるスタジアムは、「ヴァンフォーレ甲府」のホームだそうです。長野県人では「アッ、そー」としか言えませんが、“記念に”横にあるトイレを拝借して身軽にしました。
途中で「落合町」の信号を見ました。小瀬スポーツ公園を取り巻く旧村の一つに「落合村」がありますが、地図には「諏訪神社」はありません。その交差点を右折し、旧下今井村の諏訪神社に着きました。
地図では左下で、南西に当たる諏訪神社です。社殿は、西油川と同じ西を向いていました。縦長の境内は、狭いこともあってか、本殿周りを除くとよく手入れがしてあり、掃き目も残っていました。
南側が竹藪ですから、陰となった本殿の色が沈んでいます。「この条件でも一枚」とカメラを向けました。
ここまでの道中が「秋日サンサン」でしたから油断しました。腕の微かな違和感に手が反応した場所を見ると、やはり蚊が黒い染みとなって残っていました。たっぷり吸われたらしく、報復はできたものの、すでに時遅しでした。急いで反対側に廻りました。距離が足りないので、藪の中に踏み込んで撮ったのが上の本殿です。ようやく古色が乗ってきたという新しい社殿でした。
『甲斐国志』での記載は僅かですが、入口に、案内板に代わる黒御影石の「諏訪神社社殿造営記念」碑がありました。氏子の諏訪神社に対する崇敬心に賛同して全文を紹介します。
計画通りに諏訪神社を巡拝しましたが、「小瀬スポーツ公園を外側から見る」とも言えるコースでした。山梨県に限りませんが、「公立」の各種超大型施設は、それらに無縁な人は一生に一度も利用する機会が無いでしょう。税金を納めている身には、程々の規模にしてくれと切に思いますが…。