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鮎沢諏訪社 岡谷市川岸 24.5.17

 長野県神社庁では「諏訪社」ですが、旧鮎沢村と字「鮎沢」から「鮎沢諏訪社」としました。諏訪圏外の人には、「洩矢神社」がある橋原村の隣と言った方がわかりやすいでしょうか。

鮎沢諏訪社

鮎沢諏訪神社 諏訪湖方面からは観蛍橋を渡りきって直ぐに山手に向かう道をたどり、中央自動車道の橋梁をくぐると鮎沢諏訪社でした。川に沿った細長で傾斜のある境内地は、鮎沢村が成立してから200年後の造営なので、この場所しか空いていなかったというのが理由でしょう。(これもまた、ここに造るしかなかった)マレットゴルフ場が“併設”してある境内の中を、参道の石畳を伝って拝殿へ向かいました。

鮎沢諏訪神社の本殿 拝殿の扉が格子なので、その間から本殿を撮ってみました。彫刻がありますが、拝殿と本殿の間は長い廊下で隔てられており、御簾も下がっているので詳細はわかりませんでした。


鮎沢諏訪社の屋根 拝殿からは本殿の周囲が明るく見えるので、「横に廻れば全容がわかる」と期待しました。しかし、覆屋の腰板が邪魔になっており屋根しか見えません。その屋根がいつもと様子が違うので目を細めると、何と瓦葺きです。瓦屋根の本殿を、諏訪では初めて鮎沢諏訪社で見たことになりました。

鮎沢諏訪社「神紋」 亀甲に編まれた金網を透かして、本殿の大棟に神紋「明神梶」が確認できました。勧請元の駒澤諏訪社は「諏訪梶」ですから、鮎沢村では差別化を計ったのでしょうか。一般に天竜川の左岸は上社圏内ですから、不思議といえば不思議です。正確に言うと「五本根の真ん中がやや短い」ので何かの意図がありそうですが、勘ぐり過ぎかもしれません。因みに、新しい狛犬は諏訪梶で、文化14年の灯籠は明神梶でした。灯籠には「鮎澤氏」の刻みがあるので、その関係かもしれません。

尹良大権現

尹良大権現碑 本殿の横に、明治期に村内から集められた石祠や神号碑がまとまって祀られています。ガイドブックで、なぜ鮎沢諏訪社に「尹良(ゆきよし)親王」の石碑が二基もあるのかわからない、と読んでいたので探してみました。
 確かに「尹良大権現」の神号碑が二基並んでいました。しかし、宗良親王の第二皇子と言われても、私には宗良親王本人が漠然とした存在ですから、石碑を確認できたことで鮎沢諏訪社参拝のすべてが終わったことになりました。

鮎沢村と駒沢村

 諏訪教育会『復刻諏訪史料叢書』にある『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』から「鮎沢村」を転載しました。

一、鮎澤村 鮎澤氏 金原氏
元家貳拾四軒駒澤村より別るといえども天正以前なるべきや、寛政四年初而(して)本橋掛かる、長さ拾八間、ほたる合戦五月半夏前後五日斗り之内同村之辺りに有り、

 ホタルが一斉に飛び立つ「蛍合戦」が見られ、古いところでは高島(諏訪)藩主・昭和までは岡谷市の女工さん達が舟で見物したほどの名所も、現在は「観蛍橋(かんけいばし)」の名の中に残るだけです。
 当時は天竜川の氾濫を防ぐために橋を架けるのが許されなかったそうですから、治水が落ち着いた寛政4年(1792)になって初めて、それも諏訪湖からかなり離れている「この場所」に橋を架けることができたということでしょう。

鮎澤村

 重複しているので、分村関係はここでまとめてみました。

一、鮎澤村始めは高三十六石草高共五拾石駒澤村より分け成と云、天正年中以前之事成可(なるべし)、其の後草高百石に成、役人出来る、安永年中産土分る

↓天正の頃(1573−1592)に駒沢村から分村。
↓石高が倍増して村としての体裁ができた。
・安永年中(1772−1780)に産土社を建てた。

という流れですから、分村から200年を経て、ようやく村の産土社を造営したことがわかります。分村に至った経緯は不明ですが、鮎沢村となっても、親村にかなりの部分を依存してきたことがわかります。

鮎沢諏訪社の造営

 手元に、駒沢公民館から頂いた『駒澤区史跡説明めぐり』があります。この資料に、明和元年(1764)の「其御村鎮守之儀…」で始まる『一札』が載っていました。ここでは《意訳》の方を紹介します。

御村の鎮守の事については、先年(前々)よりお宮の建立・修理・破損等のお金(入目)は前々の通り差し出します。もっとも、御柱の時も従来の通り立ち会います。その他鎮守の事について何にても従来通り仕ります。右の段少しも相違御座いません。当年御柱ですので、かつまた、改められ候事御承知してください。後の證(証)として前記の通り。

 この『一札』は鮎沢村が駒澤村に宛てた“約束・謝罪”書です。この“騒ぎ”の30年前に作られた『諏訪藩主手元絵図』の「鮎沢村」では、まだ「氏神」と書かれた神社しかありません。年代から見ても地力が付いた鮎沢村が完全独立を画策し始めた頃と思われますから、駒沢村への負担金を自村の鎮守神社を造営することに充てようと考えたことが推察できます。
 これは拒否されて「従来通りにします」という一札を新たに入れる結果となりましたが、(駒沢村に鎮守社の負担金を納めながらも)この10年後に念願の鎮守社を自村に造営できたことになります。