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美唄達布諏訪神社と片倉組 岩見沢市北村町

片倉組と諏訪神社map 神社の場所を調べる場合、私は複数の地図サイトを参照します。その一つに、珍しく「諏訪神社」の文字がありました。これで労することなく鎮座地が確定し、美唄達布(びばいたっぷ)諏訪神社と(勝手ながら)名付けました。
 神社の周囲を眺めると、背後に「旧石狩古川」とあり、さらに「旧美唄川」「石狩川」と続いています。「旧石狩古川」は、地図では釣り針のように曲がった「池」ですから、河川改修で「蛇行部分が取り残された」と想像できました。
 また、神社のすぐ左(西)に、「石狩支庁」と「空知支庁」の支庁界があります。ところが、その太い一点鎖線が、身をくねらせるように石狩川の上を「行ったり来たり」しています。例えれば「」の縦線を石狩川とすると、「」がその境界線ということになります。蛇行を無くす河川改修工事の結果、「原石狩川」の形が「支庁界」として残ったのでしょう。
 スクロールして、字(あざ)「北村美唄達布」の「北村」を表示させると、役場ではなく「支所」とあります。合併先を調べると岩見沢市でしたが、検索すると、まだ「旧北村」のHPが残っていました。その中に

 原田農場に続いて大農場を開設したのが、北村の村名にもなった山梨県人の北村雄治です。北村雄治は、明治27年に狐森一帯の広大な土地に北村農場を開き、農場の発展に情熱を注ぎました。

とあります。「北村」は「大字(おおあざ)」に“格下げ”となりましたが、試しに、出身地「中巨摩郡若草町十日市場」を調べると、こちらは「南アルプス市十日市場」になっていました。
 (諏訪神社はどこへ、という話の流れですが)北村支所に並んで「北村温泉」があります。車中泊なので、真夏の移動には「その日の内に風呂に入れるか」が切実な問題です。調べると「北村温泉ホテル・立ち寄り可・500円」でした。ルートだけを決めて、後は「諏訪明神の神意次第」という旅なので、何日の何時頃「美唄達布」にいるのか予定すら立ちません。それでも、地図に(カーナビ設定用の)電話番号をメモしました。以上が、自宅で座ったまま調べた、肝心の由緒がわからないという「美唄達布諏訪神社ガイド」です。

美唄達布へ

 江差から岩見沢市を目指します。北海道では「一般道路でも高速道路(並み)」と様子がわかったので、設定を「一般道路・距離優先」でセットしました。今の時間では無理なので、メモリー登録してある諏訪神社を「北村温泉ホテル」に切り替えると、到着予想時刻を「午後9時」と表示しました。
 札幌までは順調でしたが、最短距離は札幌市内縦断とあって金曜日夜6時の渋滞に巻き込まれました。それでも夜8時過ぎに到着したのは、「平均時速が40キロ」という初期設定にありました。さっそく「ご当地速度60キロ」にセットし直しました。
 温泉前の道を挟んで異常に広い駐車場があります。案内板は「北村中央公園」で、目の前のしゃれた建物は水洗トイレでした。これで「今宵の宿」が決まったので、真向かいの北村温泉へ向かいました。洗い髪のままで“公園付属”のコンビニで弁当と缶ビールを購入したというのが、昨夜の経過報告です。

美唄達布諏訪神社

 朝一番の美唄達布諏訪神社です。昨夜この前を通りましたから、「二日続けて」ということになります。

片倉組と美唄達布諏訪神社

 写真左の建物に「唄達布会館」と大きく書いてあります。今は大型農業機械のガレージになっていますから、入口を高くするために「美」が切り取られたのでしょう。「美唄達布」を、今は名残(なごり)となった地区を代表する集会所と見ると、「びばいたっぷ」まで来たという実感がありました。

当初、美唄達布の大半は長野県諏訪の片倉組の農場であり、農場管理者小木曽文太郎氏が開拓の守護神として故郷の諏訪明神を奉祀すべく、最古参地主の高岡嘉平氏の賛成を得て安達甚左エ門氏、広川徳松氏らの協力のもとに、(明治4年に)官幣大社諏訪神社から御分霊を(現社殿の右に)奉載創祀する。当時の祭日は九月十三日。神殿は葦葺き、四尺四方、拝殿は間口九尺奥行二間で、現在の社殿より五〜六間川沿いに建立。昭和十三年現在地に新築され昭和三十二年(地区住民が入りきれないので)増築される。 平成元年七月 建立
( )内は、『北村村史』から補足 

 境内にあった「由緒」です。何と、「片倉組」の名が出てきました。製糸業界最大手の片倉組が、北海道の開拓に関与していたとはまったく知りませんでした。これで、北村農場が山梨県で、美唄達布の農場が長野県ということになります。
 片倉組の“余韻”に浸りながら拝殿に近づくと、表札と同じような木札に「諏訪神社」とあるのが読めました。格子戸のガラスから中を覗きますが、窓がないので暗く本殿の写真は撮れません。他に何か諏訪神社らしいものを、と境内に視線を戻すと何かの石造物が見えます。
 覗き込むと、残念ながら石仏でした。銘が確認できないので「縁もゆかり」もわかりませんが、近くの高さ60cmの手水鉢には「昭和十一年奉納・新篠津禅寺観音講一同」とあります。手許の地図では、「新篠津は川向こうの村」で「合併しなかった村」としかわかりませんでした。

片倉合名会社

「片倉組」美唄達布諏訪神社

 道から少し入ったところに「自作農創設記念碑」があります。境内ではなく旧集会所脇という位置から、諏訪神社とは関係ないようです。それでも、せっかくここまで来たのだから、と軽い気持ちで裏に廻ってみました。独特の書体ですが、楷書に近いので旧字や難字を読み飛ばしても内容が理解できました。
 「農場主への感謝」は別として、限られた文字数の中に込めた「自作農への道」から、永久に語り尽くせない開拓者の想いが伝わってきます。「片倉組から自作農へ」というより、「美唄達布開拓史」の余りの重さに全文を紹介することにしました。原文はカタカナですが、読みやすいようにひらがなに替え句読点も(勝手に)加えました。なお、「」は判読できませんでした。

 本創設地片倉農場々主片倉合名会社は、社長貴族院議員片倉兼太郎殿・副社長片倉勝衛殿にして製糸王として大いに其の名有り。明治卅六(36)地域二百三十三町歩を卜(ぼく)して開拓の業を創始す。爾来(じらい)三十七星霜其の間度々水害凶作に遭遇し幾多の難開に逢着したるも、一意は企業の進歩と耕作者の生活安定を図り、耕作者亦(また)場主の恩恵に感奮し孜々(しし)として開墾耕作に専念したる結果、昭和十一年地内治水工事の完成と相俟(あいまっ)て開拓の業全く成り、経営の基礎確立するに至る。
 茲(ここ)に於て場主は農村更生の要諦は自作農創設に在りとの固き信念の下に農地の開放を決意せられ、一面村当局及関係諸氏の探甚なる斡旋に依り、自作農創設資金の貸付を受けたる我等卅七名は父祖伝来の宿願漸く達成し、茲に自作農たるの第一歩を印し更生の暁光(ぎょうこう)に浴するを得たり。仍(よっ)て一同相諮り償還組合を結成し、相扶共励益々農業報国の赤誠(せきせい)を捧ぐるの決意を固むると共に、場主の鴻恩(こうおん)を永く子孫に肝銘(かんめい)せしむる為本碑を建立す。
 昭和十五年六月

美唄達布諏訪神社 諏訪神社の前は広大な水田が広がり、その中に農家が散在しています。裏はかつての石狩川なので、柳の灌木が密生しその先が見通せません。神社の立地は耕地の縁(へり)とも映ります。洪水の度に冠水したことも想像されますが、ここに神社を建てたことがわかるような気がしました。

 北海道の神社は、諏訪神社に限りませんが、開拓する人々の大きな拠り所となっていたことが想像されます。法人登録をしなかった、言わば「その当時の村の鎮守」の一つ「美唄達布の諏訪神社」を見つめていると、車窓から見ただけということもありますが、昨夜の「札幌の高層ビル群とオシャレな女子高生のルーズソックス」がウソのように思えてきました。