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下黒沢 原山神社 山梨県北杜市高根町 21.4.18

 諏訪大社の重要な摂社である御射山社は「御射山」に鎮座しています。ところが、現在でも地元で慣れ親しんでいる「原山」の呼称が古くから知られていたのか、各地に御射山明神を勧請した神社に「原山神社」の名が見られます。もちろん御射山社ですから、「例祭日8月27日(旧暦7月27日)・ウナギ(ドジョウ)の放流」などが一致します。
 その最たる例は、山梨県韮崎市の「青木原山神社」でしょうか。諏訪の御射山社の方向を背にした本殿があり、例祭日も同じです。さらに「穂屋野の三光」の言い伝えもあります。
 青木原山神社の参拝を済ませれば、次は旧高根町にある「原山神社」に目が向きます。「北杜市の諏訪神社巡り」のコースに加えました。

原山神社

 須玉町の「若神子諏訪神社」の北に、「S」を限界まで押しつぶしたようなヘアピンカーブがあります。等高線がないカーナビでは想像もできませんでしたが、台地上へ一気に登る急坂でした。
 地図の縮尺で表現が変わりそうですが、私には、八ヶ岳の裾野を広大な台地とすれば、その「突端」という位置に原山神社がありました。

原山神社

 神社前に続く参道の正面には南アルプスが一望ですが、八ヶ岳を生活の背景とする私には具体的な山名を呼ぶことができません。春霞で“青い墨絵”といった山並みですが、山襞の雪はまだ冬のままなのがわかります。

原山神社

 原山神社の境内は大規模な改修が終わった直後のようで、芽吹きの片鱗も見られない赤土に覆われていました。真新しい石段や社号標も、まだ周囲に馴染めずに居心地が悪そうです。満開は逃してしまいましたが、まだそれが想像できる桜を仰ぎながら案内板の前に立ちました。

高根町指定有形文化財原山神社の本殿
 当社は下黒澤の打越に鎮座し、社記によれば延元元年(一三三六)に寄付を募り建立したもので、木花開耶姫命ほか七柱の神々を祀っています。
 本殿は南面して立つ一間社流造で、入念な施工・細工が施されています。現存する棟札及び建築請負契約書によると、本殿は安永七年(一七七八)の建立で、河内の下山村松木喜内と若神子村の内藤源治右衛門、木挽は桜井八郎兵衛と孫八、屋根は甲府長円寺町の宮田孫兵衛らで、請負代金は甲金八両で、発起人は桜井半兵衛ら七人の連署が残されています。近世の寺社建築(下山系)の様式をうかがう上で貴重な遺構です。
 本殿下には鈴石と呼ばれる石があり、以下のような伝承が残されています。昔、若神子村(現須玉町)から黒沢村へ上がる坂道に大きな石があった。月の夜などここを通るとチリンチリンと鳴ったことから、鈴石又は鈴石様と呼び、この坂を鈴坂と呼んだ。この石は霊験あらたかで、願をかけるとたちまちに御利益が授けられたという。そこで、村人たちは、黒沢村の中程へ移そうと村人総出で太い綱を巻きつけ引き上げてきたが、現在の神社付近までくると、少しも動かなくなってしまい、村人たちはここを鈴石の安置場所とし、御神体としてその上に原山神社を建立し祀った、といわれています。

 この由緒には、私が必要とする「原山」神社の由来がどこにもありません。また、伝説とはいえ、鈴石を祭っているはずなのに、祭神を木花開耶姫命ほか七柱としています。甲斐国一之宮が「浅間神社」なので、その祭神をメインに据えるのはやむを得ないと思いますが…。

原山神社 拝殿の「兎の毛通し(懸魚)」ですが、何と「ガ」です。初めて見ました。見た目からも嫌われる昆虫がなぜ一番目立つところに飾られているのか不思議でしたが、調べると、蚕の成虫として家紋にも用いられていることがわかりました。せめて白色に塗ってあれば、のけ反る角度が小さかったと思われますが…。現時点では、案内板にある祭神「木花開耶姫」と絹の原料「蚕」との関係は不明です。

原山神社本殿 北杜市(高根町)指定有形文化財の本殿を拝観しようと拝殿の後方に向かいますが、本殿は覆屋内にあり、屋根の一部が見えるだけでした。実は「原山=御射山」と想定して「原山神社」に来たので、大棟にある飾りをズームを最大にしたカメラで観察しますが、諏訪社との関連性はありません。さらに、境内社を含め社殿の隅々まで目を皿にしましたが、わずかな繋がりでさえも見つけることができません。祭神の交代は間違いなくあったと思いますが、その痕跡を見いだせないまま引き揚げました。

原山神社は御射山社

 高根町『高根町誌』から「原山神社」を開くと、諏訪系ではない「他七柱」の神々が列挙してありました。しかし、案内板とほぼ同じ内容ではヒントさえつかめません。本殿床下にある「鈴石」の写真だけが拾い物でした。
 次は、山梨県近世史のバイブル・甲斐叢書刊行会『甲斐国志』を参照しました。

一〔八幡宮〕上黒澤ニ鎮座ス。上下両村ノ鎮守ナリ。(略)
又西峯(ヲネ)ニ王大神ヲ祀ル下黒澤村ノ原山明神七月二十七日参詣ノ者多シト云。

 上黒澤にある八幡神社の記述ですが、ここに原山明神の“消息”が載っていました。目論見通り「下黒澤村の原山明神」が原山神社の住所「下黒沢」と一致し、例祭も「7月27日(旧暦)」と重なりました。『甲斐国志』を参照する限りは、江戸時代後期(1815年頃)では「御射山社系の原山神社」であることは間違いないようです。

原山神社再び 21.8.22

 社殿の向きはどうだったのだろうか、と再び原山神社を訪ねました。北杜市高根町で資料探しを兼ねての再訪ですが、本家の「北杜市たかね図書館」には『高根町誌』もなく、まったく期待外れに終わりました。

鳥居と富士山 木立で見えませんが、鳥居の右上が富士山です。おおよその位置ですが“富士マーク”を重ねてみました。
 参道の敷石が、狭くなった部分から右へ曲がっているのは、昭和の「御大典紀年」で建てた鳥居に合わせたためでしょう。敷石を並べたばかりに、その位置違いが露わになってしまいました。
 敷石はともかく、社殿と鳥居の向きが富士山とは微妙にズレています。主祭神に合わせて、全てのラインを富士山を真正面にした位置にするのが“スジ”だと思いますが、真正面では「畏れ多い」ということなのでしょうか。
 この微妙なズレがあるために“あれこれ良からぬこと”を考えてしまいます。まず、持参のコンパスで社殿の向きを測りました。拝殿に比べ極小の針では正確な角度が出ませんが、拝殿−本殿ラインは磁北から約30度西でした。自宅で地図を重ねると、残念ながら「諏訪の御射山社ライン」より10度ほどずれていました。
 下社の「旧御射山社」なら“いい線”ですが、あれこれ符合する条件だけを付帯する気はありませんから、潔(いさぎよ)く、社殿の向きは地形の傾斜の長手方向としました。もちろん、原山神社を御射山社とする考えは変わりません。