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鹿児島(薩摩)の並立鳥居 24.3.3 改

 鹿児島県では、同型の鳥居が横に二基並んだ「並立鳥居」を見ることができます。

南大隅町諏訪神社の並立鳥居
南大隅町 諏訪神社

 すでに固有名詞となっているようで、ネットで「並立鳥居」を検索すると、「諏訪神社の並立鳥居」を推薦してくれます。

 しかし、観光・名所案内のサイトやブログでは、その形態を、申し合わせたかのように「唯一・極めて希」などと大げさに紹介しています。その実態を知った私は、「異議あり」と、(お節介にも)“諏訪神社の本場”長野県諏訪の地から声を挙げてみました。

南方神社の並立鳥居
南さつま市 八幡神社(南方神社合祀)

 鹿児島県の神社については、諏訪神社の総本社「諏訪大社」が鎮座する長野県の諏訪からは、ネットを使った“遠隔調査”しかできません。
 しかし、その手法でも10社の並立鳥居が見つかりました。そのすべては、「諏訪神社(南方神社)・鹿児島県」のキーワードに限定されます。鹿児島というより、「薩摩藩」とした方が正確かもしれません。

元祖!! 並立鳥居

 薩摩藩が幕末に編纂した地誌『三國名勝圖會(三国名勝図会)』があります。その中に「諏方」と名が付いた神社が繰り返し出てきますが、その発祥の地である長野県諏訪の図書館では手に取ることができません。そのため、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』を参照しました。

正一位諏方大明神社(南方神社)

 『巻之三』の「神社」部に、〔正一位諏方大明神社〕が載っています。神階が「正一位」で、しかも「当社は、鹿児島の総廟にして」とある記述から、鹿児島では最高位の神社であることがわかります。

本殿の並立

 関係する部分だけを転載しました。

正一位諏方大明神社 府城の東北 坂本村にあり、祭神二坐、その一坐は建御名方命、是を上社と称し、一坐は事代主命、是を下社と称し奉り、神體各鏡 櫝(ヅシ)にす、上社を左位に崇(あが)め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す、

 「櫝」は(OSの違いで表示しない)環境依存文字なので、画像で表示しています。その櫝ですが、どう考えても「ずし」と読めないので、意味を含めて調べてみました。

【御櫝(おとく)】 権現造の社殿に多い。宮中御厨子所の食物棚に起源を持ち、前面に両開きの扉を付けたもの。内部には浜床を据え、厚畳、茵(しとね)を重ね敷いた上に御霊代を奉安する。また、御櫝全体を衾(ふすま)等で覆う。
『Wikipedia』

 この内容と「ヅシ」とフリガナがあることから、「厨子」の同意語とわかりました。また、続く「殊」は「異」の誤字ではないかと疑いましたが、辞書には【殊・異・事・別】は「別にする・区別する」とあるので、「神体の鏡は別々の厨子に収めてある」と解釈できました。

 これで、祭神及び神体が異なる二つの櫝が一つ屋根の下に安置してある──すなわち「建御名方命(神体:鏡)・事代主命(神体:鏡)を、上社・下社として別々の本殿(厨子)に収め、両社を同じ社殿(合殿)に安置した」となりました。

諏訪両神社の本殿
「並立本殿」鹿屋市 上百引諏訪両神社

 しかし、文字の羅列では具体的なイメージは浮かびません。そこで、上百引(かみもびき)諏訪両神社の例を挙げてみました。このように、合殿が開放されていれば、「左右これを合殿に安す」を見ることができます。

鳥居の並立

並立鳥居「正一位諏方大明神社(現在は南方神社)」
鹿児島郡鹿児島之二「諏方神社(部分)」

 改めて添付の絵図を眺めると、本社とある最奥の社殿が「合殿」になります。その中に、上写真と同じ配置で本殿が並んでいることになります。
 このように、合祀ではない同格の別神社という考え方なので、それぞれに対応する二基の鳥居()を建てることにしたのでしょう。それを、現在の我々が(勝手に)「並立鳥居」と呼ぶようになったという次第です。

鹿児島県各地の諏訪神社

 古文献では「諏方社」ですが、以降は「諏訪神社」とします。

諏訪神社と南方神社

諏訪神社の並立鳥居
薩摩川内市 諏訪神社

 「鹿児島の総社」が諏方大明神社ですから、その形式がそのまま各地の分社−諏訪神社に伝わったことになります。ところが、現在は、『三国名勝図会』に登場する諏訪神社は影を潜めています。調べると、「明治初期に、多くの諏訪神社が南方神社と改称した」ことがわかりました。

南方神社の並立鳥居
枕崎市 南方神社

 私は長野県人なので、「なぜ」と問われても沈黙するしかありませんが、これについては、枕崎市鹿篭麓町鎮座の南方神社『由緒』が参考になります。


 明治五年(1872)、県から神官本田出羽守が臨検し、事代主命に代えて建御名方命の妻である八坂刀売の命を祭らしめ、諏訪神社に換え(建)御名方命の名から南方神社(ミナカタ)と改めた。

 ここに登場した「本田出羽守」は、『三国名勝図会』の〔正一位諏方大明神社〕にも名前が載っていました。

大宮司職、正五位本田出羽守親徳なり。 社人三十家、これに副ふて祀事を助く。

 何と、諏方大明神社の大宮司・藤原親徳で、薩摩藩では最高位の神官でした。ただし、こちらの出羽守は時代に合わないので、その大宮司職と官位を継いだ神官が、“強権”を振るったと考えることができます。それはともかくとして、南方神社は=諏訪神社ですから、社殿・鳥居の形式はまったく同じになります。

絵図に残る並立鳥居

 引き続き『三国名勝図会』で、並立鳥居のある絵図を探してみました。

並立鳥居「諏方社」
高城郡水引之一「平島諏方磧(部分)」

南方神社T
 見た通りの「並立鳥居」ですが、当時はこれが常識(正式)だったということなので、並び建った鳥居についての説明はありません。
 鎮座地ですが、「高城郡」とあっても、どこにあるのか見当も付きません。「千臺川畔にあり」から「高城郡 千臺川」で検索すると、『鹿児島県神社庁』のサイトが「南方神社−薩摩川内(せんだい)市湯島町」を表示しました。

南方神社の並立鳥居
薩摩川内市 南方神社

 その南方神社を地図で確認すると、その通りの「川内(千臺)川畔」にありました。また、川に突き出た部分があることから、「磧の根に諏方神祠あり」が理解できました。


並立鳥居「諏方社」
日置郡伊集院「諏方神社(部分)」

南方神社U
 絵図に「諏方神社」と書き込まれていますが、本文を参照すると「諏方上下大明神社」でした。
 「谷口村にあり…」から「伊集院 谷口」で検索すると、「日置市伊集院町下谷口」にある「南方神社」でした。

 「現在はどうなっているのだろう」と現地へ出掛けると、残念ながら鳥居は一基でした。案内板ではそのことに全く触れていませんから、かなりの昔から並立鳥居は退転していたのでしょう。

「これが薩摩の諏訪神社」だが、…

中津野南方神社
南さつま市 南方神社

 古くに創建された諏訪神社では、“鳥居の並立は必須”だったことは間違いありません。しかし、現在は、総社である鹿児島市の南方神社ですら一基の鳥居しかありませんから、二倍の負担になる建て替えは次第に廃れて「単立鳥居」に落ち着いたのでしょう。

諏訪神社の並立鳥居
日置市 諏訪神社

 その結果、並立をかたくなに守って建て替えてきた神社と、先人が「石」鳥居を建てた神社に並立鳥居が残ったことになります。
 一方で、日置市の諏訪神社では半永久的な石鳥居でも老朽化し、すでに貫(ぬき)がありません。倒壊の危険性から撤去される日も近いと思われます。

川辺町南方神社の並立鳥居
南九州市 南方神社(右は倒壊)

 南九州市の南方神社では、平成28年の台風で片側の鳥居が倒壊しました。
 両社とも早期の再建が望まれますが、氏子の減少に直面している現在では困難でしょう。
 このような変遷を経ながら、並立鳥居が単立になっていった過程は容易に想像できます。

生福南方神社の並立鳥居
いちき串木野市 南方神社

 いちき串木野市にある南方神社では、案内板に「現在、二十五名の氏子が毎月の清掃及び毎年の例祭を行い、御守りしています」と書いています。
 合併前の「串木野市」が見られるので、少なくとも10年以上前の案内板となります。その汚れ一つ無い案内板から、今でもしっかりと守られていることが伝わってきました。

金峰町の並立鳥居
南さつま市 南方神社

 現在は、全国津々浦々で少子化に伴う高齢化や過疎化が進み、神社の維持管理が困難な時代になっています。遠隔地から金銭を伴わないエールを送っても何の意味もありませんが、「ここは一つ頑張って、並立鳥居を存続させてください」と言うしかありません。


‖サイト内リンク‖ 並立鳥居の元祖 鹿児島市清水町「南方神社」