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本別諏訪神社 中川郡本別町 21.7.6

北海道の諏訪神社map 本別の諏訪神社は「跡」とわかりました。しかし、「…てもタイ」ではありませんが「諏訪神社」です。他の諏訪神社のエリアとは大きく離れていますが、11年前に寄らずにいた根室と7月の釧路湿原を見てから「本別入り」と計画しました。


諏訪山

 JRが廃線になる前の情報ですが、概念図には諏訪神社跡へ直登する道があります。しかし、それらしき踏み跡も見つからないので、メインの「本別開村紀年碑」がある公園から展望台を目指しました。
 今朝、“開湯”と同時に入った鶴居村「グリーンパークつるい」で全身を入念に洗い、全てを着替えました。しかし、早くもTシャツに汗が移ってきます。少しでも空気の循環を、と胸元と裾に手を入れて隙間を作り黙々と登りました。

本別町を見下ろす

 展望台で本別町を見下ろしてから、アップダウンを繰り返す尾根に辟易しながら進むと分岐があります。「諏訪神社鳥居・句碑」を選ぶと、支尾根の先に石碑が見えました。

本別諏訪神社跡 チョッとした広場でベンチもあります。遠目では「壇上に石柱」でしたが、近づくと、残された廃材を積み上げただけの「諏訪神社跡」でした。石柱にはめ込んだパネルを読むと、「諏訪神社奥宮跡」とあります。「跡」を見て「本別の諏訪神社」を終わらせるはずでしたが「奥宮」が余分です。「奥宮とあるからには里宮が」と、この時点で下山が一時停止となりました。
 背後の木を何気なく見上げると、枝に一対の鹿のツノが掛けられています。北海道では「諏訪神社と神饌の鹿」は意識に無いと思われます。たまたまこの付近で見つけたのを、神社跡ながら敬意を表して枝に掛けたのでしょう。

本別諏訪神社鳥居 “境内”の端に、下る小道があるのを見つけました。これが、情報にあった「諏訪神社跡直登の道」でしょう。下りきったところに「里宮」がある、と下山路にしました。
 細かいノミ痕が模様となった石鳥居が現れました。これが「道標にある鳥居」でした。左右の柱に「昭和十一年十月北海行幸記念」「十勝信濃会本別支部建」と刻まれています。
 「鳥居も跡」で済ませていましたから得した気分です。その勢いで「里宮」ですが、その先は「電柵」が阻んでいます。諏訪と同じくサルやシカ(加えてヒグマ?)の害が多いのでしょうか。右はその境界が延々と続き、左は切れ落ちています。スポーツサンダルでは無理と判断したので、収まっていた汗を再びかくことになりました。
 公園に戻り、引き返した場所から見当を付けた「里宮ライン」近くにある民家に向かいました。しかし、「この辺りにはない。上の神社には行ったことがない」と言います。

本別町図書館

 ここまで関われば、もう後には退けません。本別町図書館で、『本別町史』と『本別町史・追補』を閲覧しました。

諏訪神社 東町義経の里
 諏訪神社は大正十五年六月建立されたるものであるが、毀損甚く地況も参拝に不便なため此地を卜し再建の上御遷宮致すものである。
 旧社は諏訪山にあり、今は諏訪神社奥社の石柱と鳥居が残されている。現社殿は旧殿を移設したもので、石造り2m程のものである。長野県人が故郷長野の諏訪神社を分神して建立した。

 これで、「現社殿が石祠で、義経の里にある」ことがわかりました。「義経の里」の場所を職員に訊くと、首を傾げた後「本別公園」ではないかと言います。今登ってきた「諏訪山」と知った山並みの向こう側に公園があると言います。

義経の里

 “合併の賜(たまもの)”と思われる広大な公園があります。その内容は別にして、まずは目にした草取り中の女性二人に声を掛けました。ところが、「諏訪神社」にはまったく反応がありません。
 犬の散歩なら地元の人です。ここは慌てても、と近づくのを待ってその男性に訊くと、「ついでだから」と神社が見える場所まで案内してくれました。道中の話で「本別神社に合祀したので、今は神社がない」ことがわかりました。

本別諏訪神社旧跡 指差した「こんもりした所」に着きましたが、該当するものが無いのでだだっ広い公園を彷徨(さまよ)ってしまいました。別に聞いた「御所」を思い出し、その看板からたどり着いたのが写真の「諏訪神社旧跡地」です。石段のみで何もありませんでした。
 資料と話で「麓へ遷宮」したことはわかります。しかし、「上−下」「里−奥」など、対にならない一社だけの神社を「奥宮」とした理由が理解できません。「両社」が鎮座していた一時期があったのかもしれません。

本別神社

本別神社
本別神社

 ここまで来れば「文字と話」だけで帰るわけにはいきません。今度は合祀されたという「本別神社」です。その神社がどこにあるのかわからないのでカーナビでチェックしましたが見つかりません。取りあえず町内へ、と戻ると、町の入口に「本別神社」の社標がありました。
 私の、汗が整髪料という長髪ボサボサ頭・年は行っているのにTシャツとジーンズにスポーツサンダル・肩にオレンジのワンショルダーデイパックという姿に、宮司は不審者と思ったかもしれません。

本別諏訪神社石祠 これまでの経緯を説明すると、事情がわかったのか丁寧に応じてくれました。「合祀」を持ち出すと、諏訪神社は「廃社」になったと言います。祭る人がいなくなったので、と境内隅の石祠前に案内してくれました。中は“空”にしてあるので、希望者があれば譲りたいと話が続きました。
 彫られた「諏訪神社」を読んで、ようやく「本別諏訪神社探索」の緞帳を下ろすことができました。当然ながら“諏訪神社の秘宝”はありませんでしたが、レリックハンターの気分を充分に味わいました。

新津繁松氏

 自宅で、これが最後と「本別諏訪神社」を検索していたら、本別町開拓の功労者「新津繁松」が見つかりました。さらにその名前で検索したら『開拓魂は永遠に−新津繁松 北海道拓殖百年記念誌』の目次に、「本別諏訪神社の建立と御柱祭り」がありました。「目次」なので内容まではわかりませんが、「御柱」まで建てたとは驚きました。その中で、新津繁松氏が「長野県南佐久郡小海町出身」と知りました。

本別諏訪神社“元の鞘に収まる”

 平成23年になって、『WEB TOKACHI』で「諏訪神社 半世紀ぶりに『社』鎮座 2011年5月11日」の見出しを見ました。以下に、抜粋したものを転載しました。

 同神社は26年、長野県諏訪神社から分霊される形で設置された。しかし、60年ごろに何らかの理由で社部分が台座脇の沢に転落。同神社奉賛会が71年、沢から社を引き揚げ、現在の静山キャンプ場近くに移転させたものの、同奉賛会の解散後、社部分が人づてに本別神社に持ち込まれたままとなっていた。(中略)
 社の引き揚げ作業は、ボランティア11人によって丸1日がかりで行われた。石造りの社(およそ1メートル四方、重さ300キロ)を3分割して土そりに載せ、本別神社から山頂までの約1キロを登山道伝いに3時間かけて小型重機でけん引。さらに山頂の台座を水平に戻し、付着したコケなども取り除いた上で慎重に収めた。

 この記事では「何らかの理由で」とありますが、現地の地形からして人為的に落とされたのは間違いありません。この行為は“甚大な精神力と労力”を伴いますから、ただの悪ふざけとは考えられません。諏訪神社によほどの恨みがあったのでは、と考えてしまいます。
 一つ気になるのが「その後」です。単なるモニュメントとして元に戻したのか、それとも、祭神を再び迎えて諏訪神社として祀ったのか、この記事からは窺えません。前者でなければよいのですが。