諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪神社メニュー /

上幌延諏訪神社(長応寺) 天塩郡幌延町 21.7.4

『法華宗農場顛末』(抜粋)
 農場が小作人子弟の教育のために開設した仮学校が、幌延町における教育施設の濫觴(らんしょう・物事の始まり)をなし、それがやがて幌延簡易教育所から更に幌延第二尋常小学校となり、現在は上幌延小学校として管内の教育に重要な役割を果たしていることも、見逃すことはできない。さらに、長応寺の境内に守護神として祀られ、農場小作人の氏神としての役割を果たしていた諏訪神社が、現在では小学校のかたわらに移転されて、上幌延全体の鎮守となっていることも、顕著な事実である。

 北海道の諏訪神社を調べる中で、林善茂著『法華宗農場顛末』を知りました。pdf文書の中に「諏訪神社」が注釈を入れても数行というものですが、大きな手掛かりになりました。

map 北海道行きが決断できずにいたので再検索しました。旅行記のサイトに、『法華宗農場顛末』に登場する「長応寺」の紹介レポートがあります。読み進めると「上幌延小学校跡」が出てきました。「上幌延小学校/跡/廃校」でサーチすると、確かに廃校になっていますがその場所が特定できません。上幌延駅から幌延駅までの間としましたが、地図を拡大しても「長応寺」しか表示しません。
 『法華宗農場顛末』の全文をプリントして読んでみました。上人の苦難を極めた布教と開拓に、「…これは物見遊山では済まされない」と、長応寺の参拝もすることにしました。

上幌延諏訪神社

 信号が極端に少ないので、長野県では考えられない“平均時速60Km”というハイペースです。地元の車は“郷の掟”とばかり、その図体に関係なく「そうするもの」とばかり追い越して行きます。追い越し禁止区間では煽られますが、(そのせっかちさに対抗して)“頑(かたく)なに”マイペースを貫きました。
 地図では「一走り」のように見えますが、カーナビの中の自車は遅々として進みません。延々と続いた日本海を左に見る道を手塩町から内陸部に向きを変えると、「北緯45度」の標識が現れました。そのラインをまたいでも何も起こりませんが、「地球を八割りにした角度」と考えると胸に迫るものがありました。
 「長応寺の参拝を済ませてから」の方が“劇的”ですが、カーナビは「上幌延小学校跡」を先に案内してくれました。校門を入ると、右方の一画にプレハブの「天塩川現場事務所」があります。「見慣れぬナンバーでは怪しまれるかな」と一瞬思いましたが、構わず進んで校舎前に車を駐めました。

上幌延小学校跡
諏訪神社

 赤屋根の「上幌延生活改善センター」とあるのは、その形から校舎跡に建てたものでしょう。まだ健在の体育館をしばし眺めてから校庭の奥を窺うと、林の中に赤い屋根が見えます。神社が敷地のどこにあるのかわかっていなかったのですが、諏訪神社と直感しました。
 ブタナが一面に黄色の花をつけています。そのグラウンドの奥に「幌延町教育発祥地」の碑が見えました。前知識にありますから即座にうなずきました。車幅の裸地が草で覆われると、それが濡れているのに気が付きました。一雨あったようです。ここまで来れば急ぐこともありません。いったん戻り、スポーツサンダルを靴に履き替えました。

幌延諏訪神社 “心置きなく”膝下の草を蹴散らしながら社殿に向かいます。諏訪神社は石祠か木祠と想像していましたから、質素ながらも大きな社殿に驚きました。まずは、「諏訪から来ました」と拝礼をしました。
 上写真を右手から見る方向が諏訪神社の正面でした。クマザサに覆われた参道を2mほど分け入ると、ようやく鳥居の全景が撮れました。

幌延諏訪神社本殿 改めて社殿周りを観察しました。板壁が一新しています。屋根もそのツヤから、塗装したのではなく葺き替えたようです。しかし、諏訪神社を証明する具体的なものがありません。サッシの窓に背後のカラマツが映り込んでいますが、何度か場所を変えると、紫の定紋幕に「明神梶」と「平成十年六月吉日」が確認できました。諏訪神社は健在でした。

長応寺

 上幌延の人達が交通の基点とした上幌延駅に寄ってみました。ここも時代に違(たが)わず無人駅なので、ホームに立って赤茶けた鉄路の消滅点を見つめました。

長応寺 長応寺です。たまたま庫裏の前におばあさんがいたので「参拝をしたい」と申し出ると、…彼女が住職でした。間を埋めるような問いに「長野県から来た」と答えると、申し訳なさそうな口ぶりで「こんな山寺まで」と返ってきました。「先代は亡くなった」とわかったので、期待していた話を聞くことができません。しかし、話の中で今はなき私の母と同年齢と知り、何か懐かしくて四方山話を続けてしまいました。
 「お元気で」と暇乞いして本堂を後にしましたが、「お茶代わり」と戴いたドリンク剤が気になります。実は、その場で一本飲み干したのですが、残りの1本はどうしようかと心の隅で悩み続けていました。立ち上がる時には決断ができずにザックにしまい込んだのですが、やはり置いてくるべきだった後悔しました。声を掛けたにしても真昼の闖入者に等しい私に対するおばあさんの心の動きを思うと、寺を守る一人暮らしの生活の中で提供してくれた「ドリンク剤2本」に、なぜか重いものを感じてしまいます。

長応寺

 今「諏訪神社だけ」という縁で、上幌延に入植した先人の“後ろ”に立っています。その先が上幌延なのかわかりませんが、彼らと同じ方向を見詰めてみました。お墓を公開することの是非を迷いましたが、「この一枚」に勝るものはない、として長応寺の二枚目に加えました。

幌延神社

 まだ4時を少し回った時間ですが、今日の余韻を大事にしたくて、『幌延町HP』で紹介していた民宿に泊まることにしました。食事までの空き時間は、女将さんは「トナカイ牧場」を推薦してくれましたが、やはり、と幌延神社に向かいました。
 扉が開放された社務所の前にワゴン車が駐まっています。子供連れの夫婦が庭に何かを植えています。その状況から「宮司さんでしょうか」と声を掛けてみました。当たり!!で、「上幌延諏訪神社は氏子が管理している。例祭時は私が祭行する。社殿は最近改築した」と聞き出せました。

 その時のメモを見ると「下社 6/1」と書いてあります。今となっては自信がありませんが、「諏訪大社下社から勧請し、例祭が6月1日」ということでしょうか。

諏訪神社・長応寺

三十番神・諏訪神社

 冒頭の『法華宗農場顛末』に、「諏訪神社の注釈」があります。

三十番神を守護神として祭るのは、日蓮門下の常であるが、その三十番神の一つに諏訪神社がある。それで日聡上人は法華宗農場の守護神として、長応寺の境内に諏訪神社を祀ったものである。御神体は日聡上人染筆の題目及び三十番神である。

 「三十番神」を調べると、「日替わりで国家や人民を守護する神の総称」とありました。「(毎月)二日が諏訪大明神」(の番)ですが、「越中」生まれの上人がなぜ諏訪神社を選んで境内に祀ったのかはわかりません。

昭和23年当時の上幌延

航空写真1947
国土交通省『国土画像情報』

 米軍が昭和23年に撮影した航空写真から、「上幌延付近」を切り取りました。天塩川は、その後のショートカット工事で蛇行部分が消滅したので「旧天塩川」としました。
 これを見ると、上幌延駅の前(北西)には多くの建物があります。戦後間もない頃では鉄道が唯一の交通手段ですから、かなり賑わっていたと思われます。

 現在は、人家もまばらな上幌延駅前の道を、ダンプカーだけが出入(ではい)りしています。今でも“平成の治水”が盛んに行われているようですが、その現場がどこなのかは知る由もありません。


昭和52年当時の諏訪神社

上幌延諏訪神社(航空写真) 同じく、昭和52年5月撮影の上幌延小学校と諏訪神社です。この5年後に閉校しましたから、それまでに児童の減少が著しく進んだのでしょう。
 二枚とも人が写っていない航空写真ですが、長応寺の住職が「歴代の檀家総代も5人亡くなってしまった」「過疎が進み、家もなくなり人もいなくなった」と寂しそうに語っていたことが、しきりに思い出されて止みません。