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志田 船形神社の石鳥居 甲斐市志田

 諏訪神社の鳥居が山梨県指定文化財なら、これはもう行くしかありません。何しろ、長野県諏訪では、諏訪神社(現・諏訪大社)の式年造営という“掟”がありましたから、古い鳥居など見ることはできません。

山梨県指定文化財「船形神社石鳥居」

 この鳥居は、総高2.53m、幅は柱真々(※間々)で1.70m。材石は石英角閃安山岩である。右柱の刻銘によって応永4年(1397)に造建されたことがわかり、確実な室町時代初期の遺構として、そのころの基準を示す点がきわめて貴重である。両柱はわずかに転びを見せ、幅にくらべて背が低く安定感があり、姿は後世のものと著しく相違し、総じて古格を保つ名作である。
HP『やまなしまなびネット』から

船形神社の石鳥居 「船形神社は度重なる洪水のため、江戸時代に現在地へ移された」そうです。鳥居を見て、初めに目が行った左柱の「修復跡」がその履歴の一つなのでしょうか。
 古いのがわかっていますから、鳥居をくぐるという行為にも少し力が入ってしまいました。通常はこのまま参道を進むのですが、今回はその周りを一回りし、見るからに荒れた石肌を見つめ、「諏訪神社600年の歴史」に触れてみました。
 改めてその全容を眺めると、貫だけが新しいことに気が付きました。「後世」と言っても最近でしょうか。補完された若々しい体で大いなる歴史を支えているように見えました。

船形神社 鳥居の左柱に刻まれた「応永四 丁丑 四月日…」銘です。「永」が「永」になっているのが至って古さを倍増させています。その下の干支(の十二支)ですが、古今東西の人は「丑」と読んでいますが、私には「巳」としか見えません。「永」と同じ「当時(地)の当用漢字」でしょうか。また、補修剤が充填してあるので、「日」で終止なのかその後に何か続くのかわかりません。私にはスッキリしない建立年になりました。

船形神社鳥居 鳥居額が無いので、通常はその背後で見えない額束を仰ぐと、…文字が彫られています。「方大明神」と読めたので、これは「諏方大明神」に間違いないと、その上の「余白」を注視しました。予想通りの「諏」です。
 船形神社が諏訪神社であることが鳥居から確認できました。しかし、読み取れないほど上部を削った理由がわかりません。柱や貫の破損時に額束も割れ、代用品として何かの「諏方大明神」を転用したのでしょうか。

船形神社は諏訪神社

船形神社 車道を横切って、参道より一段高い境内に入ると、何かの礎石らしい石組が埋まっています。大きさと石の配列、さらに拝殿へのラインから「随身門」に間違いありません。かつての姿を浮かべながら、その下(上)を通り抜けました。鳥居の文字もそうですが、最近は、(他人には)どうでもよい「事」にこだわったり、突っ込みを入れてしまいます。
 拝殿からのぞくと、神社庁の認定書は「船形神社」です。鳥居の額束が「諏方大明神」と確認して来ましたから、通称が「船形神社」ならわかりますが、これでは「諏訪神社」がまったく無視されています。
 拝殿の右に畑があり、おばあさんが盛んに手を動かしているのを知っていましたから、さっそく聞いてみました。ところが、「ここは船形神社。諏訪神社など聞いたことがない」と言い張ります。地元の意思を尊重してその件は引っ込めました。
 さらに、「北杜市から嫁に来たが、当時は苦しいことが多かったので神仏に手を合わすことが多かった。(長野県)下諏訪に妹がいるので御柱祭に行ったことがある。(生まれた)里には穂見神社があり、お祭りには神楽もあって賑やかだったが、ここは何もない。境内の竹藪を開墾して畑にしたので、今借りている」などと話が続きました。
 その中で、この地へ来たのが「9年前」とわかりました。鳥居から神社の周囲にかけては新しい住宅と更地が多いので、逆算すると、10年ほど前はこの辺りは農家だけだったと思われます。これでは、お年寄りでも「諏訪神社」のことはわからないはず、と腑に落ちました。

 船形神社本殿 裏に廻ると、白壁の上に本殿の赤い屋根が覗いていました。その大棟の中央に梶の一枚葉「立穀」があるので、山梨県神社庁が何と言おうと、私は「諏訪神社」としました。
 彫刻はかなり凝っていて彩色も残っています。山梨県では常識の鬼面もありました。ファインダーをのぞいて気が付いた向拝柱貫の「大きな髭がある龍」の蟇股ですが、自宅で見たらブレていたので紹介できません。龍の蟇股は珍しいので、“いずれ又”としました。

 船形神社神紋 前述の本殿大棟の神紋「立穀の葉」です。鬼板は「花菱」でした。家紋サイトによると、花菱を初めに家紋にしたのが「甲斐武田氏」とあります。「山梨の諏訪神社」を巡ると、諏訪色が全く見られない花菱だけの神社と、花菱と立穀の葉や諏訪梶を併用した神社の二つの流れが見られます。よく知られている「武田菱」が少ないのは、時の権力者に慮(おもんばか)って、武田色を薄めたためでしょうか。
 写真を撮り終えると、鳥居の横をシルバーカーに頼って小さくなっていく後ろ姿が見えました。

禰津(弥津)神平と船形神社

 甲斐叢書刊行会『甲斐国志』から転載しました。

〔諏方明神〕志田村
 社記曰く。船形神社是なり。往古は巨祠にて三月第二の酉の日(諏訪大社の御頭祭)、六月十五日には神輿を古社地船塚に遷して祭る。今神幸は廃したれともその道を神幸道と称す。船塚は本祠の南八町ばかりを隔てて田中に在り。その上に船石と云うあり。縦三丈横九尺形名の如し。傍らに神輿を安置せし石あり。輿石と呼ぶ。
 縦九尺横五尺祠の傍らに、常基屋敷・神子屋敷・神子田・御手洗池等あり。石華表(※石鳥居)の銘に応永四丁丑四月日立と刻せり。神主禰津伊勢の家記に先祖禰津神平の三男八郎太夫信州より来たりて当社の神主となる。その墓あり。

 これを読んで、鳥居の“あるかもしれない字”は「立」で、「四月(日)に鳥居を建てた」となりました。また、江戸時代の人も「丑」と読んでいるので、隣県からの異議は引っ込めることにしました。
 また、ここに出る「禰津神平」は、「諏訪流鷹狩の始祖」とだけ知っています。訪れたときは案内板がなかったので、そんな繋がりがあるとは知りませんでした。その墓はどこにあるのでしょうか。また、「船石」や「輿石」は今でも残っているのでしょうか。