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下谷口南方神社 鹿児島県日置市伊集院町下谷口 29.2.7

 ここには「諏方・諏訪・南方」の表記がありますが、時代による呼称で、すべて同じ神社です。

鹿児島県日置市東市来町 伊集院(いじゅういん)といえば、同姓の作家やタレントが頭に浮かびます。彼らが島津氏に繋がる伊集院氏の末裔かどうかは個人的に詮索してもらうこととして…。
 その伊集院町にある南方(みなかた)神社ですが、現在は“単立鳥居”なので〔並立鳥居シリーズ〕としての掲載は見送りました。しかし、遠路はるばる参拝した鹿児島諏訪神社の一社です。記憶が曖昧にならない前に紹介することにしました。

並立鳥居「諏方社」
日置郡伊集院「諏方神社(部分)」

 『三国名勝図会』に、「諏方神社」の絵図が何枚か挿入されています。ここでは、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』所蔵のものから、「谷口村にあり…」と書かれた諏方神社を転載しました。
 絵図では、並立鳥居と左右の小祠(後述)、カヤ葺きの拝殿に渡殿と本殿が連結しているのがわかります。

下谷口南方神社 28.12.6

伊集院町「下谷口南方神社」

 伊集院小学校を背にして撮った南方神社です。まず初めに注視したのが鳥居の左右ですが、当然ながら、並立鳥居の“跡”はありませんでした。

 境内には二つの案内板がありますが、“中立”の立場をとって、サイト『鹿児島県神社庁』から〔南方神社〕の一部を転載しました。

由緒
 島津家九代忠国公の代(永正年間※1504-1520)、信州諏訪の神主中島宮内少輔(くないしょうゆう)は兄弟不和になり、諏訪の神体を奉護して薩州へ下向してきたという。大守忠国公は殊の外崇敬されに勧請し、六十町余りを寄進された。以後、代々藩主も崇敬し、伊集院の宗廟として七月二十八日の祭礼は(あつかい)より代参があり斎行されていた。明治五年四月村社に列せられてからも変ることなく祭祀は厳修された。
 一説には、宮内少輔が奉護してきた御神体は初め石谷へ勧請し、のち伊集院大隅守熈久(てるひさ)(忠国公の女婿で当時伊集院を領していた)の代に現在地に遷座されたとも云い、また勧請の年を永正三年とする説など諸説あってはっきりしないが、島津の祖忠久公が入国の際各地に勧請した諏訪神社の一社と思われる。
 中世、社前では犬追物が行われ、犬之馬場と呼ばれて近くに地頭仮屋があった。

 ここには、島津藩政時代の名称「麓・」があります。長野県人の私が補足しては越県行為になるので、気になる方は自分で調べてください。

下谷口南方神社 拝殿は(らしくない)シンプルな造りですが、鹿児島では多く見られるので、私はすっかり慣れました。
 右側は木の背後で見えませんが、左右にある祠が、『三国名勝図会』にも見える二棟の祠です。中に随身(ずいじん)像が安置してありますが、かなり痛んでいるので写真での紹介は遠慮しました。
 左にわずかに写っている案内板には「境内神社 天児屋命・天太玉命」とあるので、左右の随身像が相当することになります。鹿児島の(諏訪)神社では狛犬の代わりとも思える祠に収めた随身像を多く目にしましたから、この形式が一般的なものとも思えます。

下谷口南方神社 屋根が見えないので、食器棚とも思ってしまう本殿です。しかし、よく見ると「相殿」になっていますから、上社と下社を祀ってある鹿児島独自の諏訪神社であることがわかります。
 伊集院校区公民館が設置した案内板には「諏訪神社を勧請したのですが、伊集院では南方(みなかた)神社と呼ばれています」とあるので、伊集院では諏訪神社から南方神社に改称した経緯は知られていないようです。それでも、並立鳥居と左右に分かれた本殿の形式が廃れても、何とか本来の姿を保っているように見えました。

犬追馬場(犬射馬場)

 境内の一画にある記念碑に、「…神域の整備を図るべく上ノ馬場・犬追馬場の有志相集い…」を読みました。転載した『由緒』にも「犬追物が行われ」とありますから、私が知る“犬射馬場”があったことになります。「その有志」ですから、犬追馬場が今でも地区名として残っていることに興味を持ちました。

 地図を眺めると、南方神社からは離れていますが「上之馬場・天神馬場」があります。複数の「馬場」表示にピンときたので、ネットで検索してみました。『第一工業大学 さつま文化資源研究会』の〔伊集院麓〕[(3) 麓の特徴・現状]から、関係する部分を転載しました。

http://www.daiichi-koudai.ac.jp/daiichi-koudai/satsuma/pege5_4.php
「伊集院町中心街略図」では、大通りの馬場は、ほぼ同じ間隔で「下馬場通り」「中下通り」「上ノ馬場通り」「下馬場通り」(※重複)「向江馬場通り」と名前がつけられていた。

 鹿児島市では通りの名称に“馬場とは関係ない”「馬場」を付けたことを知っていましたから、伊集院町でも同じとわかりました。しかし、記念碑では「◯◯通りの有志」となりますから、何か変です。少し考えて、通りを挟んだ、言わば両側町が「上ノ馬場・犬追馬場」地区と理解しました。