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南方神社 鹿児島県枕崎市鹿篭麓町 28.12.31

鹿児島県枕崎市籠麓町 薩摩半島において、並立鳥居をもつ神社で最南端に位置するのが枕崎市です。その市内にある町「鹿篭麓」を「かろうろく」と読みましたが、「かごふもと」でした。


鹿篭麓南方神社の並立鳥居 28.12.6

 カーナビが案内したのは、神社っ気がまったくない場所でした。ところが、道脇のコンクリート壁に「南方神社へ」の標識があります。改めて駐車場を探すのも面倒なので、高架下にあるゴミステーションの隅を借用しました。
 二つ目の標識で上りとなった小道を伝うと、社殿を横から眺めるという境内に出ました。まずは並立鳥居ですから、最下壇まで降りてみました。

南方神社の並立鳥居(枕崎市鹿篭麓町)

 石橋がいい感じです。カメラを地面に接するようにして並立鳥居を撮りましたが、小さくなってその存在が薄くなってしまいました。その代わりが以下の写真です。

鹿篭麓南方神社の拝殿 笠木に、(シダの仲間としか言えない)シダが生えています。土がないのに生い茂っているのが不思議ですが、着生植物とすれば納得できます。笠木と柱のわずかな隙間に根を張り、上の大木が格好の日傘になっていますから、空中の水分と養分を取り入れるだけで繁茂できるのでしょう。

鹿篭麓南方神社本殿 南方神社の拝殿です。これまで、諏訪系神社の社殿や鳥居・賽銭箱が赤く塗られているのを多く見てきました。ところが、ここ鹿篭麓町では薄緑が加わっています。神社のイメージを“塗り替える”カラフルさですが、もちろん「南国だから」という説明はつきません。なぜ、こうなのでしょう。
 拝礼するために正面に廻ると、左方にある社務所に人の気配が感じられます。神職が常駐しているとなれば、この地を代表する神社ということになります。今回は並立鳥居の旅なので、“社格”といったようなものは頭に入っていません。

鹿篭麓南方神社の拝殿 「白い本殿」です。漆喰だろうかと仰ぎましたが、塗られた白でした。
 始めは神社にそぐわないとしましたが、人間とは勝手なもので、眺めているうちに「これも在り」と違和感が消えていきました。
 渡殿との間が囲われているので、正面の造りや彫刻は見ることができません。その時にまた緑の色を意識してしまい、なぜを反復してしまいました。結局、拝殿の緑色は疑問のままで、並立鳥居のある神社を後にしました。

 この神社は、海まで4Kmもない場所にあります。台風による潮風の影響も大きいと思われますから、社殿の腰板を銅板で覆ったと考えてみました。それが腐食した緑青(ろくしょう)がきれいと評判になり、改築時にそれをイメージした色に塗ったと考えてみました。ただ、緑から緑青を連想したことから始まった推理ですから、突拍子もないと言われれば、…それまでです。
 それより、昔から「青丹よし」の詞がありますから、これが社寺の伝統色かもしれません。


御扉の並立(並列?)

 境内にある案内板です。

 正平十二年(1357)、六代太守氏久公一乗院を再興。この頃、薩摩国阿多郡加世田郷字敷山頂(箴多山)に長野県諏訪湖南北に二社ずつ鎮座する信濃国一之宮諏訪大社を勧請。
 文安元年(1444)、島津照久(別名伊集院照久)が字敷山頂から現在の地へ移したものであるといわれる。古来、諏訪神社と呼ばれ、故に烏居・御扉(神殿扉)が横並びに並立する持徴がある。爾来、産土神として奉祀される。
 明治五年(1872)、県から神官本田出羽守が臨検し、事代主命に代えて建御名方神の妻である八坂刀売命を祭らしめ、諏訪神社に換え(健)御名方の名から南方神社(ミナカタ)と改めた。
『鹿児島県神社庁』〔南方神社〕と同じ表記

 ここに「御扉(神殿扉)が横並びに並立」とあるので、正面から撮っておいた写真を確認しました。

鹿篭麓南方神社の本殿
本殿の御扉が並立

 実は、本殿の前部が覆われているので外から観察できず、この写真も「なんか白っぽくて、変な造りだなー」としてお蔵入りをしていました。
 改めて注視すると、左右に分かれた白いパネルが扉であることがわかります。そのつもりで見ると、鍵穴もありました。一般的に言う「相殿」形式でした。ただし、これは「並立」ではなく「並列」とすべきでしょう(と、また恒例の…)。

「照久」と「ひろ久」

 やはり、頼りとなるのは『鹿児島県神社庁』です。以下は〔南方神社〕の一部ですが、案内板と同文の「諏訪神社から南方神社への改称」についての経緯が書いてあります。わずか二行ですが、私には、これが唯一の情報源となっています。

 文安元年、島津氏族伊集院ひろ久が、宇敷山(加世田市境)山頂の諏訪社を現在地へ遷した。この時、御神体を山下門の氏子が背負い、途中休憩したと言われる木口屋には、諏訪平、鳥居迫の字名を残している。
 上社に建御名方命を下社に事代主命を奉祭祀し、諏訪神社と称し、鳥居が二基並立しているのが特色である。明治五年、県から神官本田出羽守が臨検し、事代主命に代えて八坂刀売命を祭らしめ、南方神社と改めた
 明治四十二年、大山積神社(昭和二十一年復活)、立神神社、津留神社(熊野権現宮)、木原神社を合祀した。現在の社殿は、本殿が明治六年、拝殿が昭和六年改築のものである。
 昭和六年の改築は、在京実業家児玉益彦氏の寄贈(五、〇四一円三八銭)により、ほかに氏子の労力奉仕、延べ一、五五〇人を要した。また、大正十四年完成の参道の石段も、児玉氏の寄付金によるものである。

 冒頭に、「島津氏族伊集院ひろ久」があります。島津氏の支族である伊集院ひろ久ということですが、なぜ平仮名なのか疑問を持ちました。神社の案内板では「照久」なので、単なる変換ミスとしました。
 しかし、権威ある神社庁です。気になって(人はこれを暇人の暇つぶしと言いますが)「伊集院照久」をネットで調べると、一般的な人名として表示します。これは変だと「伊集院 系図」で再検索すると、「熙久」が浮上しました。そう、元総理大臣「細川護熙(もりひろ)」の「熙」です。

 再び「熙」を調べると、異体字に「照」はありませんが、〔名乗〕に、つまり人名としての読みに「てる・ひろ」がありました。これで南方神社と神社庁の表記の違いがわかりましたが、平仮名はともかく、「ひろ」に「照」を当てるのは間違いということになりました。