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八幡神社の並立鳥居 鹿児島県南さつま市加世田 28.12.20

鹿児島県南さつま市 加世田の益山にある神社なので、「益山」を冠してみました。


益山八幡神社 28.12.5

益山 八幡神社の「並立鳥居」

 名称は八幡神社ですが、薩摩の諏訪神社を象徴する並立鳥居が建っています。「なぜ」という疑問は、南さつま市教育委員会が設置した石碑を読むとわかります。

 八幡神社
一一〇〇(康和二年)池田・藤宮両氏が石清水八幡宮の神霊を奉持して益山に八幡宮を建立した。その後、明治四十三年南方神社を合祀した。鳥居が横に二つ並ぶのは南方神社の特色であるが、合祀された時鳥居も移された

鳥居の藁座 その鳥居に関して「鹿児島では…」と言っても諏訪系の神社しか見ていませんが、柱の根元が太くなっています。「藁座(わらざ)」と呼ぶそうで、多角形をしています。
 「鳥居の柱を固定するために根元の周囲に打ち込んだ杭が、柱の飾りとして変化した」「長野県諏訪大社の御柱(おんばしら)に、その原形を求めることができます」と知ったかぶった話は別として、そこに「明治卅九年七月建設」とありました。碑の説明から、南方神社のために建てたのに、その四年後に八幡神社へ移転する羽目になったことになります。

益山 八幡神社の拝殿 拝殿の前に、仁王(金剛力士)像が立っています。鹿児島の神社では普通に見られる光景ですが、大きく、しかも完形であるのが不思議です。
 多くの神社では、仁王像が廃仏毀釈で壊され、その痛々しい姿をさらしています。この八幡神社でも鳥居脇にあるものは体のあちこちを無くしていますが、写真のものは健在です。この不思議さも、後で、平成に寄進されたものとわかって納得しました。

益山 八幡神社本殿 本殿の扉が閉まっているので幣帛などの確認はできませんが、八幡神社とあって、瓦には各所に三つ巴の装飾が見られました。
 合祀とは言え諏訪神社を表しているのは鳥居だけですから、諏訪の神様は一つ屋根の下で肩身を狭くしているのは間違いありません。

万之瀬川
「万之瀬川」(望遠レンズ使用)

 参道が広い、といっても車のすれ違いは困難ですが、余りにも直線が続くので、その先がどうなっているのか確認することにしました。
 突端は大きな下りになり、その先には川が流れていました(※後述)。鹿児島の神社は「やはり川を前にしている」と頷いたのですが、全ての神社を廻ったわけではないので、今回もたまたまということになりました。

 もう、4時も回ろうかという時間帯です。すでに九州の陽は斜光となって全ての影を長く延ばしています。異郷でのつるべ落としを恐れながら、カーナビに次の神社をセットしました。

追記

 教育委員会の説明が乏しいので、『鹿児島県神社庁』のサイトから転載しました。八幡神社の説明なので、南方神社は無視されています。

 康和二年(1100)、土地の郷士である池田、藤宮両氏が京都の男山八幡(石清水八幡)より御神霊を守って来て、この益山の中村に社殿を建立。その後文明十年(1478)、現在の地に遷し御再興された。
 貞永二年、応長元年、応永八年、近くは安永八年藩主島津重豪公が御再興している。島津日新公の御崇敬篤く、往古は三騎による流鏑馬もあり、又明治の中頃まで浜下りの催しもあった。

益山八幡神社「流鏑馬馬場?」 これを読んで、鳥居前の直線道路で流鏑馬が行われた可能性を考えてみました。
 上写真のガードレール附近から、並立鳥居を撮ったのがこの写真です。果たして、この道を人馬が疾走したのでしょうか。

中津野 南方神社 南さつま市金峰町

 前出のサイトに、中津野鎮座の南方神社があります。読み進めたら、移転前の(益山)南方神社の記述がありました。

 昔の阿多郷内には諏訪神社が多く、花瀬に二社、白川に一社、宮崎に三社、新山に一社あったが、明治五年頃これらの諏訪神社に合祀したといわれる。
 また昔、加世田には諏訪神社が一社もなく、阿多には余りにも多かったので、その内の花瀬の一社の御神体を万之瀬川に投げいれたところ、加世田の人々が拾って奉斎したのが益山の諏訪神社であり、俗に投げ諏訪と呼ばれたという。

 「御神体を投げ入れた」とはどういうことなのか理解できませんが、その川が参道の先にあった「万之瀬川」でした。「あの川が…」と、時間が制約される中でわざわざ足を運んだ甲斐がありました。

南さつま市中津野 南方神社の並立鳥居
南さつま市中津野「南方神社の並立鳥居」

 「中津野」は益山八幡神社と同じ金峰町内です。『GoogleMap』で調べてみると、「南方神社」が表示しました。
 道沿いにあるので〔ストリートビュー〕で走ってみると、何と、並立鳥居が…。長野の地から駆けつけることはできませんから、ストリートビューの画像を切り抜いて載せました。
 改めて、中津野南方神社「由緒」の前半部分を書き足しました。

 宝徳三年(1451)辛未七月二十六日越前守藤原経久造立の棟札があるが、この時の創建であるかは不明である。往時は諏訪上下神社、または諏訪神社と称し、旧阿多五社の一つである。
 島津忠良公は天文(1534)七年十二月の第二回加世田攻めに際し、当社に祈願し勝利を得た。その落城を祝って神舞を奉納するとともに、天文十一年には当社を再興している。更に慶長十八年(1613)十一月二十日、島津家久公によって再興されている。