諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪神社メニュー /

小池神社 松本市寿 28.5.29

 以下の絵図は、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』にある〔小池村〕の一部です。二ページに分かれているものを合成し、散在する“名所”がわかるようにラベルを貼ってみました。

諏訪藩主手元絵図「小池村」

 こちらは、GoogleMapの衛星写真に、今回歩いたコースを表示させたものです。寺社の名前は、現在の呼称に替えてあります。


地蔵清水

 太郎稲荷神社を参拝したので、地蔵清水経由で小池神社へ行くことにしました。

地蔵清水 絵図では池の上(北側)を東西に通る県道267号を歩いても、地図を片手にしないと(意識しないと)地蔵清水を見ることはできません。私は江戸時代の名残と思われる道を歩きましたから、ごく自然に絵図と同じ場所にある池の前に立つことができました。

小池神社

 『諏訪藩主手元絵図』では「諏方明神」ですが、明治期に改称された小池神社へ向かいます。

小池神社 県道から、両側が石屋の展示場という参道に入ります。
 鳥居の向こう側に見えるのは、神楽殿です。かなり大きな造作ですから、かつては盛んに舞われていたことが想像できます。

 神社の概略を、小池神社の社頭にある案内板から転載しました。

小池神社
 小池東の宮は「……内田之大宮、同小池之大宮出置者也…天文十七年十月十四日(一五四八)」の信玄安堵状が南内田大宮八幡宮にあり、天文年間に既にあったことがわかる。明治四十二年に西の宮を合祀し、小池神社と改め乃木大将の題額の記念碑を建てた。
寿地区景観整備委員会
平成八年三月 

 地元の人は“これでいいのだ”と思いますが、私にはわかりづらい文です。「小池東の宮は、武田信玄の時代には小池之大宮として存在していた。その小池東の宮が、小池西の宮を合祀して小池神社となった」ということでしょう。

 案内板に補足できるものがないかと、明治11年の長野県庶務課編『東筑摩郡村誌』の〔豊丘村〕を覗いてみました。諏訪社を八社挙げ、その中の二社に、それぞれ「村社々地…小池の東にあり」「村社々地…小池の西にあり」とありますから、明治初頭では「諏訪社」と呼んでいたことがわかります。近接して紛らわしいので、土地の人は「東の宮・西の宮」と呼び習わしていたのでしょう。


小池神社 拝殿正面の唐破風の鬼板は「違い矢」でした。諏訪社の痕跡はあるのかと探すと、大棟の左右に「違い矢」と「諏訪梶」が並んでいます。
 さらに注視すると、大棟左右の鬼板が、左−違い矢・右−諏訪梶でした。西の宮の祭神は不詳ですが、こちらの神紋「違い矢」が優勢な「合祀」形態ということになります。

小池神社
諏訪梶の鬼板

 諏訪社側、つまり拝殿の右側から本殿に向かうと、側面がポリカーボネートのパネルで覆われていました。
 建造物を風雨から保護するために、覆屋や本殿の一部を囲うことはよくあります。参拝者としては残念な景観となりましたが、これはやむを得ないことでしょう。わずかな隙間から本殿正面の一部を覗き、反対側に廻りました。

小池神社本殿 ところが、左側はフルオープンになっています。風向きを考慮して片側だけ覆ったのでしょうか。
 塀が高いので、離れた位置から写真を何枚か撮りました。その中で、本殿が二棟並んでいることに気が付きました。

諏訪社「蟇股の彫刻」 カメラを望遠鏡代わりにして奥の社殿を観察すると、蟇股の彫刻が「諏訪梶」のようなものに見えます。塀の隙間にカメラを差し伸べ、ズーム最大で撮ってみました。
 ピントがやや甘いのですが、「諏訪梶にハトらしき鳥が留まっている」構図に見えます。図案化したものに具象の物を組み合わせるのは変な印象を受けますが、私には“そう”としか見えません。この鳥がハトだとすれば、諏訪社単独の時代でも、すでに八幡神を合祀していたことも考えられます。
 ところが、梶の葉を一枚食べ尽くした(折り取った)ようにも見えます。「残った三枚で“諏訪梶”」というシャレとは思えませんが、本殿正面と隠された反対側の蟇股が確認できない状況では…。

宝蔵寺跡

 ストリートビューで「宝蔵寺」の案内板を見ていたので、地図を最大限拡大しても表示しない宝蔵寺へ寄ってみました。

宝蔵寺
 本尊は地蔵菩薩で、延宝二年(1674)僧憲法が創建した。嘉永年間(1749)火災に遭い翌年再建された。参道に六地蔵、元禄六年(1693)銘の弥勒菩薩像がある。

宝蔵寺 寿地区景観整備委員会が設置した案内板の文言です。
 ところが、設置後に取り壊されたのか、堂宇がまったくありません。左方からその社域を収めようとカメラを構えていたら、背後から声が掛かり、その経緯を聞くことができました。しかし、面白い話であってもネットで公開するには“ちょっと”という内容なので、写真と案内のみとしました。

山の神

 次は、『諏訪藩主手元絵図』では五千石街道を挟んだ場所にある「山神」です。

小池神社 県道に沿って戻ると、「山の神石仏群」とある案内板がありました。その対象物の前方にある赤い鳥居を入れて一枚撮りましたが、精一杯下がっても、そのすべてを撮ることはできませんでした。
 ここで、諏訪社である小池神社も赤鳥居でしたから、小池太郎稲荷の鳥居が赤だったのは、お稲荷さんだからということにはならない結果となりました。

山の神石仏群
 山の神を祀る「大神宮」「御嶽山大権現」「馬頭観世音」「秋葉妙義大権現」の碑が並び、江戸時代から山を大切にし敬ったことがうかがえる。東方の小池山道入口にも山の神と馬を祀る碑が並んでいる。
寿地区景観整備委員会
平成八年三月 

 同じ委員会でも「教育」ではないので無理もありませんが、名称は「山の神石造物群だろう」と突っついてしまいました。また、なぜ「大神宮(伊勢神宮)」を「山の神」に据えたのかという疑問を持ってしまいます。さらに、御嶽・秋葉・妙義大権現は山岳宗教ですが、「山を大切に敬う」とはニュアンスが違います。
 「山の神を祀る」のは、(多分)大山祇命を祭神とする左の木祠に違いありません。「山の神」の実態が忘れ去られ(祭神不詳となり)、地名として残った山の神を「石造物群」の名称としたのはわかります。しかし、「太神宮をそれに当てはめたのは間違いだろう」と、諏訪から来た立ち寄り参拝者は吠えてしまいました。しかし、案内板は20年間も立ち続けているという実績があります…。