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駒沢諏訪社 岡谷市川岸 24.5.2

 長野県神社庁では「諏訪社」ですが、旧駒澤村から「駒沢諏訪社」としました。文献の表記「駒澤」を除いて、「駒沢」で統一しました。

旧駒沢村

 冒頭から「駒沢(諏訪社)」を挙げても、諏訪圏外の人は“何ソレ”でしょうか。大字(おおあざ)の「川岸」も同様ですから、「天竜川の左岸にあり、諏訪湖側から順に(洩矢神社がある)旧橋原村・旧鮎沢村・旧駒沢村と続き、隣は上伊那郡辰野町」としました。

駒沢諏訪社

 「駒沢諏訪社の前が駒沢公民館」なので、事務室にいた館長に駐車の許可を申し出ました。その際に、駒澤区発行『駒澤区史跡説明めぐり』と題した手作り8枚綴りの資料を頂きました。これが、後々に、「鮎沢諏訪社」と「駒沢諏訪社」をまとめる上で大変重宝することになりました。

駒沢諏訪社「拝殿と鳥居」

 写真のように、駒沢諏訪社の鳥居は社殿の裏にあります。通常の鳥居が建つ場所には公民館が“鎮座”していますから、石造り同規模の鳥居が並立していることもあって「摩訶不思議」となってしまいました。

駒沢諏訪社の本殿 拝殿は、諏訪では珍しい「切妻造の妻入」でした。資料には「明治40年」とありますが、最近新築したようにしか見えません。因みに「妻入」は入口が写真の場所にあるもので、横にあるのを「平入」と言うそうです。“振り返ってみた”ら、自宅も「切妻造の妻入」でした。

駒沢諏訪社「本殿」 覆屋の格子戸から撮った本殿です。エクトプラズムのようなモノが漂っていますが、…騒がないでください。単なるガラスの汚れです。手元の資料で、「天保7年(1836)に立川流の棟梁宮坂富昇・大工小坂与兵衛が4両2分で請け負った」と早速の知識を得ました。
 初めに書いたように「本殿の背後にある二つ並びの鳥居」が最大の関心事ですから、地元民では最短距離にいる公民館長に訊いてみました。ところが、予想外の「わからない」という答えに、次に予定していた参拝終了のタイミングを逸してしまいました。再び境内を一回りして鳥居を見上げましたが解明できるはずもなく、「岡谷市指定天然記念物のサワラとケンポナシ」の写真を撮ることで気持ちの整理を付けました。

駒沢諏訪社と駒沢公民館 サクラが満開の「堂山公園」から諏訪社を撮ってみました、というより駒澤公民館を撮ったことになりました。背後に見えるのが鎮守の杜ですから、鳥居代わりの公民館を“安直”に考えれば、「限られた土地では鳥居を移転させて公民館を建てるしかなかった」ことになります。
 (もしかして)その通りなのか、“駒沢式”とも言える日本で唯一の社殿形式なのか、今までに蓄積した知識を総動員してみましたが当てはまるモノがありません。サクラの下で悩み続けるのも贅沢な時間の過ごし方ですが、そろそろ昼時とあって“ダンゴ”をどこで手配するのかが気になります。「堂山の石造物群」を見てから辰野町へ向かいました。

南宮大明神

 これより「駒沢・鮎沢」が“頻発”するので混同しないように気をつけてください。長野県神社庁の諏訪地域のリストには、市部では「諏訪社」を名乗るのは駒沢諏訪社しかありません。旧隣村の鮎沢諏訪社は駒沢諏訪社の分社ですから、明治期の改称時に駒沢村民が「諏訪社」を選択したことに「何か理由がある」と考えてしまいます。

鎮守・南宮大明神 諏訪史談会『復刻諏訪藩主手元絵図』から「駒沢村」の一部です。で囲んだ「鎮守・南宮大明神」が駒沢諏訪社ですから、絵図では神社裏に当たる道が、現在の鳥居に接した道(トップの写真参照)であることがわかります。近くに「御社宮神」もある幹線道路ですから、本殿の向きは逆であっても鳥居が建つ場所としてはおかしくないことがわかります。

並立鳥居

 中世の文献には「北南駒澤之役也」が見られますから、塩尻市・辰野町の小野神社・矢彦神社の例を絡めて推測すれば、駒沢村から分村した鮎沢村が「北駒沢」に当てはまりそうです。分村しても村の体裁が整うまでは鎮守社を持てなかった鮎沢村に注目して、それを「二つの鳥居」に結び付けてみました。かつては同村であっても、分村ともなれば「村外民」です。鮎沢村が遠慮したのか・駒沢村が条件をつけたのか、両村民がそれぞれに自村専用の鳥居を建てたと推理してみました。
 社殿の向きに関しては、(簡単ですが)“諏訪”社にこだわったことから「諏訪大社本宮と同じ形式にした」としました。

駒沢村は上社の神領

 『駒澤区史跡説明めぐり』から転載しました。

全村が神領となる
 │ └─ 慶長七年〜十八年(1602〜1613)
 ├─ 諏訪頼水の知行
 └─ 神長官 小別当 斎焼(?) 末社八人 験子(?)八人 宮大工

 これを講師が解説するのが「この資料の正しい見方」ですから、“丸投げ”されても何のことなのかわかりません。その役を引き受けたわけではありませんが、「神領」に興味を引かれて調べてみました。
 川岸村誌刊行会編『川岸村誌』がありますが、変色した紙面に鼻を近づけると饐(す)えたような匂いがします。昭和28年発行の〔非売品〕ですから、当時の紙事情とコストダウンによるものでしょう。ここから、伊藤富雄さんが担当した「初期藩政と川岸村」の一部を転載しました。日根野氏に続き諏訪頼水も神領とした駒沢村は、徳川幕府が社領を寄進したことによって通常の藩領となったということでした。

 駒沢外六ヶ村が日根野氏より上社大祝に宛行われ、上社の神領となり殊に駒沢が全村神領であった事は前章に述べたところであるが、諏訪氏の諏訪復帰後は他の村々は変わったが、駒沢は依然として神領とせられた。而して頼水は慶長七年九月十三日上社社人に対して知行目録を与えて居る。此の知行目録は宛行状とも云うべきもので、現存して居るものは神長官・小別当・斎焼・末社之太夫八人・験子四人・宮大工に宛てたる六通で(中略)
 慶安元年七月拾七日徳川幕府は、上社に千石、下社に五百石の社領を寄付して、御朱印状を発して居る。(中略)
 此の神領の変革により、橋原駒沢は長く神領を離るるに至ったのであり、爾後普通の藩領となった。

 『駒澤区史跡説明めぐり』が、「 」の部分を引用したことがわかりました。以下は、その個々の説明を“忘備録(いつか役にたつ)”として書き写したものですが、読み飛ばしても一向に差し支えありません。

小別当 上社の古い職名で、上代は詳らかでないが、中世には神楽を司っていた、茅野氏の世襲するところであった。

斎焼 紫燈(さいとう)の宛字で、紫燈護摩を焚く役目である。末社之太夫八人は御神領等帳に、「北方太夫・南方太夫・千鹿度太夫・葛井太夫・金子之太夫・真志野太夫・山寺太夫・萩宮太夫」と見え、いずれも末社の神官である。

験子 ケンコと読み、神楽男の事である。中世の大社では神楽を奏するため、八人の八乙女・五人の神楽男を置くのが普通で、上社も左様であったが、他社では神楽男を職掌(しきしょう)と呼ぶのが通例で、諏訪神社の如く「ケンコ」と呼ぶのは他に例がない。

宮大工 神宮寺原氏の世襲するところであった。

 駒沢村が慶安元年(1648)まで諏訪神社上社の神領(社人が地主)であったことが、現在の駒沢区民に特別の思いを残させているのかもしれません。それが、駒沢諏訪社の名前と社殿形式に表れていると(とりあえず)まとめてみました。

(ヤナ)

鎮守・南宮大明神 (関係ありませんが)試しに変換してみて、建物の梁(はり)と同字と知りました。
 天竜川の両岸に“壊れた橋”があります。何回か首を左90°に曲げて見つめた結果、「御や那」と読めたことで「ヤナ」とわかりました。駒澤区発行『駒澤区史跡説明めぐり』の資料から「梁」の部分を転載しましたが、講師がいないので理解できない箇所があります。

上梁(天白下)・下梁(大沢川口)
 ★ 一村限村地図(1733)※上の絵図
 ★ 状況→八・九月頃−梁に落ちる
 ├ 素麺の様(大漁だった時の例え)『諸家日記』(1840年)
 └ 蒲焼き『諏方かのこ』(1750年)
 ★ 藩の保護
 ・網漁の十倍
 ・藩で修理−大沢−梁道
   └ 行田市右え門(1705)
 ★ 撤去−明治元年
郡境梁−新設願(天保十・1837)

 旧駒沢村にあった天竜川のヤナの名残が、諏訪地域の住人なら(多分)誰もが知っているウナギ料理の「観光荘」です。現在ウナギは高(暴)騰中なので、試しに『観光荘』のサイトで確認したところ、「うな重」では〈松3350円・竹2750円〉でした。三切れと二切れの差ですが、前を通っても毎回看板を見るだけなので値上がり幅はわかりません。我が家でウナギの蒲焼きが拝めるのは一年に一回ですが、今年は原産国を選ぶことができない時代になっていることを理解しました。