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南方諏訪社 松本市入山辺 23.6.28

入山辺の諏訪神社

 霧ヶ峰や美ヶ原を源流とする薄川(すすきがわ)沿いに、古名「山家(やまべ)」としても知られる「山辺(やまべ)」があり、現在は里山辺と入山辺(いりやまべ)が隣接しています。その入山辺に諏訪神社が二社あることはわかっていましたが、「諏訪神社」だけの表記なので鎮座地が特定できずにいました。

 山辺学校民俗資料館にある「お船の展示室」で、「橋倉・南方」と書かれた諏訪神社の写真を見つけました。別室の絵図では隣り合った集落名とわかり、帰り道に参拝することになりました。

南方諏訪社参拝 23.6.22

 橋倉諏訪社と同じく、ナビは南方諏訪社を表示しません。途方に暮れましたが、空地に隣設した平屋を公民館と見て近づくと、板看板に「南方公民館」が読めました。都合よく玄関が開いています。
 話し声が伝わってくる中で応対に出てくれたのは、中年の女性でした。道順と「南方」の読みを「みなみがた」と教えてもらい、駐車の許可も頂きました。

南方諏訪社

 到着してみれば、橋倉諏訪社と同じく山際にありました。かなり延びた夏草をかき分けて近づくと、鳥居と拝殿の社額は「村社諏訪社」でした。

南方諏訪社本殿 これは見事な、しかし梅雨時には本体がその重圧に耐えられるのだろうかという萱葺きです。
 立ち寄り参拝者には嬉しい景観ですが、維持管理する氏子の皆さんの苦労が思いやられます。次回に来る機会があったとしても、その時は金属の板に替わっているもしれません。
 本殿正面の蟇股は「十六花弁の菊」で、鳥居と拝殿の「社額」以外には諏訪社である証は見つかりませんでした。

南方諏訪社 帰り際の“見返り”で、本殿屋根の大棟に幣帛が三枚あるのに気がつきました。ズーム最大で撮った写真を確認すると、大棟に金属の幣が差し込まれているのがわかりました。
 本殿御扉の前に二枚の幣帛が上がっていたのは覚えていましたが、正式には三柱相殿ということになります。諏訪神社なので主祭神は「建御名方命」であるのは間違いありませんが、現時点では合祀の祭神名はわかりません。

 明治期に調査して国に提出した『郡村誌』は、関東大震災で焼失してしまったそうです。長野県では「写し」が残っていたため、図書館では復刻版『長野県町村誌』として閲覧することができます。識者の間では「正確ではない」との評がもっぱらですが、参考として〔入山辺村〕に目を通してみました。

諏訪社 村社 本社間口六尺奥行八尺(略)勧請年月詳ならず、祭神武南方刀美命、祭日旧暦七月七日新暦八月二十七日改典、

南方村

地名は、もと桐原地域が、薄川を越えて谷の南岸斜面まで拡大して形成された地域で、桐原南方が親郷から分離したときに、南方の呼称が村名として残ったものと云われる。
松本市『松本市史第四巻旧市町村編』〔入山辺〕

 ということで、「南方」の由来は、祭神名「武南方刀美命」ではありませんでした。

茅葺屋根について

 私には、本殿は頭でっかちとしか見えません。そのアンバランスさを気にする中で、茅葺部分を取り除けば一般的な流造であることに気が付きました。そうなると、その前に位置する幣殿が瓦葺ですから、ある時期に瓦を茅に変更して以来の“葺き重ね”が現在の姿になったと考えられます。

 その私説はともかく、この茅の厚さから来る重量は本殿身舎にはかなりの負担と思われます。しかし、現在は「江戸中期の茅葺本殿の好例」として市指定の有形文化財ですから、この形状で継続するしかないでしょう。