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『三国名勝図会』に見る諏方大明神社(南方神社) Ver.25.9.11

 「古礼はすべて都方に失せて片田舎に有り」という一文があります。「都で廃(すた)れたものが、地方に残っている」という意ですが、これに倣うと「諏訪大社(都)では廃れてしまったが、分社(地方)には残っている」となります。

 『三国名勝図会』にある「正一位諏方大明神社」を読む機会がありました。その内容から、鎌倉時代における諏訪大社の“様相”に繋がるものが見つかる可能性を思いました。本腰を入れて読み始めると、キーワードがイメージとなって、薩摩の幕末から中世へ、さらに薩摩から信州へと広がっていきます。それを筆の歩みとして書き留めてみました。

以降は、長野県の諏訪大社を「諏訪神社または諏訪神社上社・諏訪神社下社」、鹿児島市の南方神社を「諏方大明神社上社・下社」と表記します。いずれも、明治維新前の名称になります。これを混同すると“大いなる時空”の中で迷子になります。

『三国名勝図会』

 薩摩藩が、薩摩・大隅・日向(一部)各国の地誌と名勝を記したのが『三国名勝図会』(以降『図会』)です。「天保14年(1843)にまとめられた。島津久光の校正を経て明治38年に出版」と解説があるので、江戸時代には書物にならなかったことがわかります。ここでは、国立国会図書館『近代デジタルライブラリー』の“スキャン本”を参考にしました。

『三国名勝図会(部分)』
『三国名勝図会』から「諏方神社(諏方大明神社)」

正一位諏方大明神社

 『図会巻之三』にある「薩摩国 鹿児島郡 鹿児島之二」の「神社」部のトップに「正一位諏方大明神社」(以降は諏方大明神社)が書かれています。

『三国名勝図会(部分)』 鹿児島では「言わずもがな神社」ですが、私にとっては遠国の、しかも江戸時代の“住所氏名”ですから、誤認のおそれがあると調べてみました。
 巻頭の「凡例」に「鹿児島郡鹿児島は本藩統治の府」とあるので、現在の鹿児島市に鎮座する(明治期に改称した)南方神社と確認できました。この「諏方大明神社」の記述を基にして、江戸時代⇔中世・薩摩⇔信濃と、時空と天空を行きつ戻りつの旅をします。

『三国名勝図会』から「正一位諏方大明神社 府城の東北

祭神二坐、その一坐は建御名方命、是を上社と称し、一坐は事代主命、是を下社と称し奉り、神體各鏡 櫝(ヅシ)を殊にす、上社を左位に崇め、下社を右位に崇め、左右これを合殿に安す、…

 薩摩では、諏方大明神社を「上社・下社」の二社に分け、祭神をそれぞれ「建御名方命・事代主命」としています。

清水町 南方神社
現在の諏方大明神社(南方神社)

 現在の諏訪大社から見れば、それなら「建御名方命・八坂刀売命(やさかとめのみこと)」ではないかということになりますが、薩摩へ勧請した当時の諏訪は「上社(建御名方命)・下社(事代主命)」という構成だったことが考えられます。と言うのも、下社の場合は、時代によって祭神の変遷が多く見られるからです。

例祭毎年五月五日、是を五月祭と云。七月廿八日、此日大祭也、…

 「五月祭」は、諏訪神社上社の「御頭」の一つ「五月会」を模しているのは間違いありません。五月会では5月2.3.4日と御狩が続き、5日には流鏑馬が行われるなど盛大な神事が行われました。また、「大祭の七月廿八日」は「御射山御狩」が当てはまります。

 これを説明する最適の資料(長野県)諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』〔信仰の普及と分社〕を参照し、分社のパターンを並べてみました。

(1)原始信仰ミシャグジの伝播の上に成立した分社の例。
(2)戦場に移住した農民兵が武人として分社した例。

(3)御射山御狩の祭日と同一祭日をもつ神社は御射山の頭人たちによる分社の例

(4)御神体とする薙鎌を、布教者である諏訪神人(しんじん・じにん)・御師たちが配布し創建した例。

(5)(6)(略)

 御射山御狩は、諏訪神社上社・下社ともに7月26日から29日にかけて行われた御狩神事で、全国から武人を始め多くの貴賤の民が集まりました。ここに挙げた(3)例のように、薩摩では、この御射山御狩を、諏方大明神社を勧請する際に例大祭日として持ち込んだのでしょう。
 ここでは関係ありませんが、例(4)のように「鎌」が登場する諏訪神社は、諏方大明神社とは創建の由来と時代が異なると考えることができます。

信濃国の地頭職

今其来由(らいゆ)を釈るに、文治二年正月八日、鎌倉右大将源公、我太祖得仏公を信濃国塩田庄…、

 『図会』の記載順に従ったので、これ以降が「由緒」としての説明に当たります。ここに出る文治二年(1186)が「すべての始まりの年」ということになります。

源頼朝下文 左は、東京大学史料編纂所所蔵『源頼朝下文』の写真を参考にして作った「下文(くだしぶみ)」です。
 ここに名が挙がっているのが「惟宗(これむね)忠久(※得仏公)」です。彼が塩田荘(現在の長野県上田市)へ地頭として任命されたことが、諏訪大明神と“出会う”きっかけとなったことがわかります。この赴任地で、幕府が全面的にバックアップしている諏訪神社の祭礼を目の当たりにしたのでしょう。

承久三年(1221)辛巳五月八日、公又信濃国太田庄地頭職に補せられ給う、

 忠久公は塩田荘から太田庄の地頭になり、再び諏訪神社と関わることになります。承久の乱に功があったのは諏訪神社の「御利益」が大であったとして、諏訪大明神を益々篤く信仰するようになったのでしょう。

 島津家に残っている「信濃国太田荘相伝系図」によれば、太田荘初代地頭の忠久および二代の忠時は、ともに諏訪社御射山祭の頭役をつとめている。そればかりでなく、その子孫の忠長・忠秀・光忠の三人もまた御射山祭頭役を、頼佑は五月会頭役を、地頭として勤仕したことをこの系図は示している。
長野県史刊行会『長野県史』の「通史」から抜粋

 太田荘では代々に渡って御射山や五月会の頭役を務めることになり、さらに諏訪神社との結びつきが強くなっていった流れが見えてきます。
 諏訪の資料に、嘉暦4年(1329)に北条高時が信濃国の地頭に出した「下知状(控)」があります。(諏訪神社ではなく)幕府が直接各地頭に下した「御頭奉仕の輪番を割り当てた」命令書で、「塩田庄・大田(太田)庄」や、大隅久米三郎・彦四郎(太田庄地頭島津氏の一族)の名が見られます。

是より道鑑公に至り伝領し給い、公遥に神恩を仰ぎ、祖徳を追い、信濃の本社諏方の神霊を、薩摩国山門院に勧請し、尊んで総社となし給えり、…

 その後も、忠義─大炊助─貞久(道鑑)─宗久と地頭職が続いたので、道鑑公の時に、その神恩に報いるべく諏方神社を薩摩の総社として勧請したことを述べています。

当時の諏訪神社上社と下社

 まとめるのが大変(面倒)なので省いていましたが、伊藤富雄さんが「以上が鎌倉期の諏訪の状態であった」とまとめた一文があったので飛びついてしまいました。

 諏訪神社を奉ずる氏神的勢力は、神氏と金刺氏に分かれていたので、幕府は公平を保つため、上下社の取り扱いには相当考慮を払った様である。(中略) 幕府の諏訪神社への奉仕は、この時代色々な面に顕れているが、その最大の奉仕は、信濃一国中の地頭御家人に命じて、御射山及び五月会の御頭を勤仕させたことである。これも上下社が並び行われたもので、その取り扱いは公平だったのである。
『伊藤富雄著作集 第五巻』から「中世の下筋地方」

 一時は諏訪神社下社の勢力が上社を凌いでいた時代もありましたが、上社も“頑張った”ので、鎌倉時代では“互角”だったことがわかります。そのため、薩摩の各諸公も、諏訪湖を挟んだ同格の「二つの諏訪神社」という認識を持っていたことが想像できます。

 齢岳公山門院木牟礼城より東福寺城に移り、鹿児島を府城の地と定給い、当社を山門院より茲(ここ)に遷座し、永く本府の総廟と敬重し、神領若干を附せらる。(中略) 其の十一年は、北朝の延文元年に当たる、此年の遷座ならんと云う。
 『山田聖栄自記』に、義天公は鹿児島に生れ給うゆえ、特に当廟を崇敬し給うと見に。都城蒲生某『蔵旧記』に、是より先一社なりしを、義天公の時、上下二社に奉祀ありしを記す、
 信州諏訪下社祭神、『木曽路名所図会』、上社に同じとす、其の上社は即ち建御名方命なり。『和漢三才図会』には、下社八坂入姫命とす。知らずいずれか是なるや。かくて当所下社は『薩州神社考』に、事代主命といい、本社摂州長田神社と注す。是に由てこれを観れば、当所下社は、固より信州の下社を祀るにあらず。按に初め一社なりしを、義天公の時、上下二社に崇め給うといえば、其の時事代主命を附祭して、下社となし給うもの歟(か)

「八坂入姫命」は、「八坂刀売命」の間違いです。鹿児島では諏訪神社の案内板に祭神・八坂入姫命と書いたものがありますが、これを読んで、『和漢三才図会』の記述を参照したものと納得しました。

 私には正体不明の文献を挙げて、齢岳公が「諏方大明神社を現在の地(鹿児島市清水町)に遷座したのは、延文元年(1356)(だろう)」とし、義天公が「一社であった諏方大明神社を上社・下社に分けた」と書いています。
 念のために調べると、ネット上には「島津義天」は存在していません!! 頭を冷やしてから「義天公」で再検索した結果「島津家8代の久豊公」とわかりました。その彼の時代に、今見る「本殿・鳥居の並立した」諏方大明神社が完成した“ことになって”います。
 次の「信州諏訪下社祭神…」で始まる小文字の部分は、久光公(他)の校正による添え書きと思われます。それによると、「『薩州神社考』の記述を参考にすると、下社は諏訪神社の下社ではなく、兵庫県の長田神社の祭神・事代主命を勧請して下社とした」と説いています。
 諏訪大社の氏子である私とすれば「えー、そんなー…」と、一気に足をすくわれた展開になりましたが、最後の【歟(や・か)】が「断定できない“疑問符”」とわかったので安堵しました。あくまで、「諏方大明神社の下社」ですから、長田神社の事代主命を持ち出すのは無理があります。

 さて、其七月廿八日の祭事は、神事奉行・頭奉行等の職掌多し。信濃諏方御佐山神事の式とて、「尾花ふき、穂屋の廻りの一村に、しばし里ある秋の御佐山」と作る歌の如く、当国に於いても新たに萱茨(かやふき)を構え、頭屋と云い、諏方社より通路の南、木川を隔て三町余の所、頭屋の地を設く。兒童二人を簡(えら)み、頭殿と号し、左右に册(かしず)き尊む。是勅使奉幣の式にて頭殿は蔵人頭(くらんとのかみ)の義なりとす。(中略)
 其頭殿、先ず六月朔日より別火斉居し、七月朔日に及び、修禊し、頭屋に上がる。其これに在るの間、凡そ百の儀式、或いは本府諸村及び谷山桜島の農夫、数日代わる代わる鉦太鼓踊りをなし、また、市躍(いちをとり)散楽(さるがく※猿楽)等を興行し、人皆興を催す。既にして七月廿八日に至り、左右の頭殿此廟に詣で、奉幣祭祀の盛礼を行われ、世々の邦君詣謁し給う。
「市」は巫女のことで、巫女の踊り。

 「7月28日の祭事」は、「信濃諏方御佐山神事の式とて」とあるように、諏訪神社の「御射山(みさやま)御頭」と「神使(ごうし)御頭」を導入したことがわかります。
 薩摩の“事情”に合わせて両御頭をブレンドしたような祭礼なので完全対応とはなりませんが、主なキーワードを挙げてみました。諏訪神社に対応する呼称《…》と概要を右に併記しました。

頭殿 《神使(おこう)》大祝(おおほうり)の代理として、「介・宮付」二人の子供を占いで選ぶ。

頭屋 《精進屋(御頭屋)》神使は、毎年新設する仮屋の中で一カ月間の別火潔斎をする。多くの神事を伴う。

奉幣祭祀の盛礼 《御射山祭》大祝と神使は御射山へ御幸して盛大な神事を行う。全国からあらゆる階層の人が集まる。

 薩摩の諏方大明神社では、「蔵人頭」に相当する子供「頭殿」二人を選んだことがわかります。信濃では、年頭に「神使」と呼ばれる六人の子供が選ばれ、大祝とともに年間の祭礼に出仕します。薩摩では大祭の7月28日に特化しているので、二人という人数になるのでしょう。また、文末に、「上・下」ではなく「左右の頭殿」という言葉が出てきます。「左右に册き尊む」とありますから、「上社・下社」の専任ではなく、今で言う宮司の左右に付き添って奉幣祭祀をしたと理解できます。
 以上のように、本社の祭礼をかなり意識していることが読み取れますから、いかに諏訪明神を篤く信仰していたのかがわかります。

島津家が保護した諏方大明神社

清水町 南方神社
現在の諏方大明神社(南方神社)

 島津家も、続く戦乱で地頭職が有名無実になれば、信濃国や諏訪神社は「話に聞くだけ」という薩摩生え抜きの当主が誕生することになります。信濃の諏訪神社では北条氏の滅亡と共に大きく衰退した時代に当たりますが、島津家では諏訪神社への神恩を諏方大明神社に代えて代々受け継がせたのでしょう。島津藩が幕末まで続いたこともあって、諏方大明神社の原初の祭祀形態がそのまま残ったことは間違いありません。

 以上が、諏訪大社が鎮座する長野県の諏訪に住む私が読んだ『図会』にある「諏方大明神社」です。この中の「下社の祭神・事代主命」が冒頭の「都方に失せて」に当てはまりますが、ここでは『図会』の“感想文”のみとし、その考察は“場所”を改めて書くことにしました。←未だに実現していません。