諏訪大社と諏訪神社トップ / 諏訪神社メニュー /

御射神社春宮と神宮寺 松本市 浅間温泉 26.7.7

■ 長野県神社庁では「御射社(春秋二座)」で表記しています。一般には「御射神社」のほうが通りがよく、鳥居額も「御射神社春宮」なので、ここでは「御射神社」としました。

松本市  松本市には古くから開けた浅間温泉があり、その山際には御射神社が鎮座しています。その東方に三才山がありますが、現在は有料道路「三才山トンネル」で知られているでしょうか。「御射・三才」とも「みさ」と読みますから、諏訪の御射山が“語源”となっているのは間違いありません。

御射神社春宮

御射神社春宮 松本市へ編入するまでは本郷村でしたから、かつての村役場を始め多くの施設が建ち並ぶ脇を通って山際に向かいます。突き当たりに、すでに写真では馴染んでいた赤い鳥居が現れました。
 左右に、近辺から移転させられた道祖神を眺めながら石段を上がります。
 境内にある案内板から一部を転載しました。

御射神社 春宮

一、古代は浅間社(宮)といい、当春宮は三才山の山の神の里宮で、春には里へ下って田の神となり、冬になると三才山へ帰って山の神となった。

一、今からおよそ八〇〇余年前、文治二年(1186)吾妻鏡にのる庄園(社寺や貴族の領地)の中にある古社で本郷六ヵ村(浅間・水汲・原・洞・稲倉・三才山)を社領とする古くて大きな社であった。

一、当社は別当寺として神宮寺を持つ格式の高い社で、およそ七〇〇年前の正応五年(1292)、中国の僧「円空」が神宮寺にて大般若経を写経して浅間社へ奉納しており、その一部が社宝として保存されている。

一、およそ六五〇年前の建武年間(1334−5)、浅間郷の地頭赤沢氏が諏訪から御射山神社を勧請して御射神社と名称が変わり、浅間の社が春宮、三才山の社が秋宮となった。

一、当社の祭神は古くは大山祇命であったが、後に諏訪大社と同じ健御名方命・八坂刀売命・事代主命が合祀され、地域の平安・家運長久・五穀成就・繁栄の守護神として崇められている。

一、当社の祭りは( 以下省略 )

御射神社春宮社務所  
御射神社春宮

 拝殿前で参拝を済ませてから、本殿の造りを見るためにその背後に廻ってみました。

御射神社春宮拝殿 本殿は千木が内削ぎの典型的な神明造ですから、凝った彫刻もなく、逆に土壇が高くなった分だけ見渡せる拝殿の立体的な瓦屋根に目が行きます。
 大棟の両端では鯱が威勢よく尾を上げ、鬼板は諏訪社の神紋「立穀(たちかじ)の葉」を掲げていました。


御射神社春宮本殿 再び拝殿前に戻って暗い内部を窺うと、奥に黒い本殿が見えます。そのため、先ほどの神明造の社殿は、本殿を雨風から守る覆屋であることに気が付きました。
 肉眼ではその造形の詳細はわかりませんが、ダメ元で、格子のガラスについた汚れを拭きとってから撮ってみました。その一枚が上の写真です。

 最後に、気になっていた拝殿に掲げられた額を再び仰いでみました。しかし、右から読んでも左から読んでも、文字が薄れているので相変わらず判読できません。推測候補を幾つか宛ててみましたが、「通會粗」と意味不明になったことで、ここに居続ける大義名分がなくなりました。
 派手な鳥居で迎えてくれた御射神社春宮ですが、その割にあっさりした社殿と境内に出鼻をくじかれたような思いをしました。


御射神社春宮の本殿について

 上の本殿写真は、自宅で画像処理をして明るくしたものです。その造りを観察すると、御簾の下辺りに見える屋根状の構造物の勾配がかなりゆるやかで、しかも異常に大きなものであることがわかります。もしそれが切妻屋根だとすれば、この本殿はとてつもなく“変な”形の社殿となります。改めて、本殿の覆屋(神明造)と拝殿が写った写真で確認してみました。

御射神社春宮本殿
御射神社春宮の本殿覆屋と渡り廊下屋根の“接合部”

 拡大すると、渡り廊下を覆屋の軒下に接する高さの屋根で覆い、空いた隙間を板で塞いだことが判明しました。
 ギリギリの高さ(軒下)まで身舎(みしゃ)の前面を覆ったことで、拝殿から見ると、本殿の上部が手前の渡り廊下の屋根と梁で隠れてしまったことがわかりました。早い話が、本殿の屋根と見えたのは渡り廊下の屋根裏でした。

 そのために、本殿の「造り」を確認することはできませんが、ネットの情報では、御射神社春宮の本殿を「神明造」としています。“常識”的には諏訪社に神明造を用いることはありませんが、松本まで離れると、祭神と社殿の関係は無頓着になってしまうのでしょう。

「文治二年吾妻鏡にのる庄園」

 案内板に載る文言です。『吾妻鏡』から、関係する部分だけを転載しました。

文治二年二月是月、後白河法皇、頼朝をして、信濃等關東(関東)知行國内、…
御射神社春宮本殿
御射神社春宮本殿
塩尻市誌編纂委員会『塩尻市誌 第四巻』

 今八幡宮・平野社・浅間社の“序列”がよくわかりませんが、岡田郷は浅間の南にある岡田と思われるので、ここに見える浅間社を現在の御射神社としたのでしょう。


神宮寺

 浅間温泉観光協会『浅間温泉アサマップ』では、〔神宮寺〕を以下のように説明しています。

http://asamaonsen.jp/asamap/culture/post-19.html
 医王山神宮寺、臨済宗妙心寺派、平安時代に浅間社(現御射神社)の別当寺として東北山中の寺平にあり真言宗の寺と伝えられる。正応五年(1292)唐出身の僧円空が大般若経を筆写している。永禄二年(1559)臨済宗鎌倉の建長寺末として再建され、延宝三年(1675)妙心寺派に帰属する。
 寺宝の円空の写経と城主石川三長の宛行状(あてがいじょう)は日本民族資料館に保管。(後略)

 また、明治初頭の『東筑摩郡村誌』では、〔御射春宮社〕の中に以下の記述がありました。

往古は神宮寺あり、唐僧圓空住職たりし時大般若経書写して奉納せしに、世替わり星移り散布せり、今尚松本士族藤井某一二部を蔵すと云う、

 案内板にある「当社は別当寺として神宮寺を持つ」ですが、事前の(ネット)知識でも興味があったので、予定通りに御射神社春宮のすぐ下にある神宮寺へ向かいました。

医王山神宮寺

 神宮寺の広い駐車場の向こうは、寺院とはとても思えない近代的な建物です。左方には確かにお寺が見えるのですが、その前を通ることに何か迷いを生じてしまいました。しゃがんで草取りをしている人に「神宮寺へ行きたいのですが、ここを通っていいですか」と断り、◯◯ホールとも言えそうな入口にある文字がやはり「アバロホール」とあるのに頷いてから左に折れました。後で、作務衣姿から彼が神宮寺の住職と思い当たりましたが…。

神宮寺 山門をくぐり、本堂と庭園を見ながら最上部にある薬師堂を参拝しました。しかし、御射神社の神宮寺といっても浅間社の時代ですから、今では何らの繋がりも見つけることはできませんでした。

 自宅で調べてわかったことですが、アバロホールは神宮寺付属の斎場でした。今思えば異常に広い駐車場の存在も納得できます。また、本堂の障壁に丸木夫妻が描いた「原爆の図」があることも知りました。


‖サイト内リンク‖ 「御射神社秋宮と烏帽子岩」