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御射山社址(御射山社と穂屋) 上伊那郡南箕輪村 24.11.18

 中央自動車道「伊那IC」の東南約1Kmの地に「御射山大社」があったという伝承があり、式内社の「大山田神社」に比定する研究者もいます。

御射山社 春日街道沿いの字(あざ)前原に位置している。この社址は古い由緒をもち、非常に大きなものであったと伝えられている。明治九年の村誌によると、東西三六〇m、南北が三二四mの広い原野で、「前原」と呼ばれていた。二本の大きな落葉松の木の下には「穂屋(ほや)」が設けられ、石碑が建てられている。今でも御子柴(みこしば)区では、毎年八月二六日に神事を行っている。

長野県教育委員会『歴史の道調査報告書 −春日道−』
古跡 御射山大社跡
 村の西の方字御射山平に、往昔御射山の大社跡あり。東西凡三町二十間、南北凡五十間、現今民有に属し、半ば私林、半ば民有林。字蔵鹿山内右地続、字神護平と唱う地あり、故に別当寺跡といえり。亦(また)字鎮守というあり、元仲仙寺々領、今官有林。
古伝記左に、
 抑(そもそも)当社の由来を尋るに、伊那郡大山田神社と申奉りて、蕗原の庄箕輪郷羽広の里に鎮座在し、即(すなわち)御射山大明神と崇め奉る。御本地福一満(ふくいちまん)虚空蔵大菩薩と称し奉る。(中略)享禄元年箕輪左衛門尉、上棚へ御射山の御宮を移す、是よりして祭礼の事絶たり。(中略)
 星霜捍移りて今は其跡而巳(のみ)残りぬ。(中略)同村(※御子柴村)地内に一の花表(※鳥居)有りしか星移り霜代りて、何日となく朽果、今は礎而巳残りぬ。其地を鳥居原と号す。(中略)御射山大明神は伊那郡一の舊蹟、七月二十七日御狩日なれば(後略)
郷土出版社刊『長野県町村誌』「西箕輪村」
古伝記の記述が年代的には信用できないことは明らかである。しかしながら、付近に残っている遺跡や地形・地名から、御射山大社は往昔与地付近にあり、いつの時代かそれが御射山三社として三日町に遷座されたという伝承は確かであろう。
箕輪町誌編纂刊行委員会編『箕輪町誌』

 幾つかの資料を抜粋して挙げましたが、『歴史の道調査報告書』にある、不鮮明ながら穂屋の前で神事を行っている写真に目を奪われました。また、1/5万図に春日道と御射山社を図示しているので、「これはもう、その穂屋を見に行くしかない」とその日を待ちました。

御射山社祉

 中央自動車道と並行して、伊那西部広域農道が「伊北IC」まで延びています。カーナビに表示したその道脇に「目的地」を設定しましたが、1/5万図からの“移植”ではかなり大ざっぱです。ましてや鳥居も社殿もありませんから、直感だけが頼りです。
 御射山大明神のお導きは無かったようで、何も“感じ”ないまま通り過ぎたことが確実となりました。取りあえず左折して、その交差点の一角にあった「JA上伊那広域集出荷場」の駐車場に乗り入れました。
 車窓から今来た道を振り返ると、午後も遅い斜光でシルエットになった“それらしきもの”が見えます。しかし、「二本の大きな落葉松」という記述とは一致しません。

御射山社址
「御射山社鳥居跡」内が穂屋

 今は国道153号より通行量が多い広域農道ですが、歩道は片側しかありません。万が一を考えて法面の草の上を歩いて近づくと、「御射山社鳥居跡」の案内柱がありました。

「御射山社」碑と穂屋

御射山社「穂屋」 竹の“枠組”に屋根だけをススキで葺いた穂屋がありました。その左奥に切り倒された大木が横になっているので、現在は「一本の落葉松の脇に…」という記述(景観)になっていることがわかりました。
 石碑の裏側に廻ると、小さな字がびっしりと彫り込まれていることに気が付きました。上2/3はコケが覆っているので読めませんが、下部には判読できる文字があります。末尾の「御子柴邨中」だけはハッキリと見えますが、…「邨」が読めません。
 以下は「御射山社祉」とある案内板の文面です。設置者が書かれていないので、私設の案内板と思われます。

 御射山社碑陰に次のようなことが記されている。
「御射山社の鳥居の土台石がここにある。御射山社ははじめ坂上田村丸によって大同四年に建てられ、四五一年経た文応元年に再造され、それから三二六年後の天正十三年十一月地震にあい破壊された。以後造営することができず二四三年が経ち、人々はただ空しく嘆いているだけである。
 後々その基礎がどこにあったかわからなくならないように碑を建て、もともとからのことを記しておく
 文政十年七月 御子柴中」(後略)

 裏面の碑文を誰もが読めるように書き直したのが「」内の文でしょう。 末尾に「御子柴村中」とあるので、「邨」が「村」の旧字であることがわかりました。

御射山社址「鳥居の礎石」 案内の続きに「碑の左右には鳥居の礎石と見られる石があり」と書いてあります。しかし、「碑の前」にある二ヶ所しか確認できません。これが鳥居の礎石と断定できれば境内(社殿)の向きが特定できそうですが、背後の地形を考慮すると、この二つの石から何かを推定することはできません。碑の横に集められた石が「礎石らしい」ということでしょう。

御射山社鳥居址 言い伝えなので具体的なことはわかりませんが、山際と天竜川の中間に当たるこの河岸段丘上に御射山社を造営し、諏訪から導入した御狩神事を盛大に行ったと想像してみました。
 前に人家が建っているのでよく見えませんが、穂屋の後方から遥か下方の伊那市街と南アルプスの仙丈ヶ岳を撮ってみました。ガードレールの手前が円筒分水槽です。

西天竜用水の円筒分水槽

西天竜用水の円筒分水槽 道を挟んで反対側にあった謎の構造物です。案内柱の「分水槽」を読んで納得しましたが、水が流れていない状況では理解できなかったのも当然でした。「岡谷市川岸より取水し、天竜川段丘上を全延長25Kmに及ぶ幹線用水路の各所で造られ、現在は35基が残っている。土木学会推薦土木遺産に認定された」とあるので、水不足に悩まされ続けてきたのでしょう。
 現在は一面の水田ですが、それ以前は畑で、開拓の手が入る前は広大な原野であったことが想像できます。